とある夏の朝のこと
目覚めてベランダにでると
じりじりと鳴きながら
息絶え絶え
横たわってる蝉を見つけました。
このセミは
間違えなくあと少しで亡くなることがわかりました。
そんなセミの最期をみながら
セミは成虫になっての人生は
1週間程度ともききます。
セミはなんのために
どんな目的をもって生まれた来たんだろうと
セミの人生に
思いを馳せたとき
ふと、吉田松陰先生の話を思い出しました。
松陰先生は安政の大獄で亡くなる前の心境を
次のように語っています。
「私は30歳であり、一事をなさずに死ぬのであれば
惜しむべきかもしれない。
10歳で死んだ人は10歳の四季を、30歳なら30歳の四季を
100歳なら100歳の四季を感じている
10歳だから、短いと考えるのは
夏のセミを霊椿(長寿の霊木)とたたえるのか
100歳だからというのは
霊椿を夏のセミにたたえるようなものか」
つまり
いつどの瞬間に亡くなる運命にあっても
それぞれに歩んだ、経験した世界があるから
短い、長い人生だと
他の人が決めていうのはお門違いなのだろう
そういえば
僕は今55歳だけど
10歳の時に想像していた
55歳の風景とは全くことなるもの。
年齢なんで
人生で見える風景って
実際はその時にならないと
わからないものです。
だから
いつ死んでも
それは自分にとって
決めた納得の人生ってことなんだろうな。
どんな毎日でも
自分の人生
自分で決めた人生を
はずことなく生きていくだと
セミが教えてくれてる気がした
とある夏の日の一コマのことでした。