年別アーカイブ: 2021
記憶屋 あなたを忘れない
”記憶屋”という映画を観た
この映画は
主人公遼一が、恋人杏子にプロポーズをし
しあわせの絶頂にいるはずだったが
翌日から杏子と連絡が取れなくなり
数日後出会ったときには
杏子の頭から
遼一の記憶だけが無くなっていたのです。
そんな時
人の記憶を消せる
“記憶屋”という都市伝説的な存在を知り
恋人の記憶を取り戻すために
その記憶屋を探しはじめる。
そして、記憶に隠された
大きな意味を知ることになる
・・・というストーリーで
これ以上はネタバレになるので
映画の内容はここまで。
映画を観ている内に
“記憶屋”の存在について
感じたのです。
“記憶屋”はいる。
みんな記憶を消されていることに
気づいたのです。
人は
産まれたときに
前世から産まれる直前までの
記憶を全て消されて
僕たちはこの世に
産まれてきていると思ったのです。
なぜ、全ての記憶を消して
僕たちは産まれてきたのでしょうか?
この世に生まれてきたのが
魂の成長のためであるとすれば
過去の記憶を持ったままだと
不条理な世の中や自分を
恨んでしまい、また憎むこともあり
過去の経験が
現在の気づき成長を阻むことに
なってしまわないだろうか?
もし記憶が残っていたら
自分と気があう人とだけ
付き合おうとしないだろうか?
苦しい経験をしていても
そのことにこだわらずに
ゼロスタートで考え、行動し
そして成長するために
記憶が消されているのでは
ないかと思います。
そして
全ての記憶は
一時的に消されてるだけ。
この世の経験が終わった後
記憶はまた再生される。
そしてその時に
前世、そして前前世に出会った人がいたから
また現世でも
様々な人と出会い、経験できたんだと
この世に感謝できるのではないかと
思える気がします。
記憶を消してくれて
生まれてこれたことに感謝して
精一杯生きていこうと思いました。
漢方薬でしあわせ探し
診療において
漢方薬を処方する機会も
多くあり
漢方薬を希望されて
受診される患者さんもいます。
漢方薬は
同じ薬だといっても
西洋薬と異なる面が多々あり
漢方薬を
西洋薬と同じ感覚では
使えない薬であることを
知らないといけない面があります。
漢方薬を希望する患者さんは
漢方薬は
西洋薬と違って
自然の物質からできているので安心
じわっと効くので安心
でも、苦いのがあるけど
そこは我慢して飲まないと
いうイメージがあるようです。
確かに
西洋薬と漢方薬は
作用の面だけでなく
本質的に全く異なる薬だと
考えないといけません。
西洋薬は
基本的に
症状を抑えるために使う薬。
漢方薬は
病気の種類、症状には関係なく
病気になったことで
崩れている気・値・水の
からだのバランスを
整えるのを目的にしてます。
漢方薬は西洋薬のように
症状をとるだけが目的ではなく
からだ全体を健康な状態に整えることで
症状を、病気を治していくのです。
根本的に
全く向いてる方向が異なる薬
と言えるのです。
そして
漢方薬が効いてるかどうかは
からだ自身が判断します。
もし
漢方薬を飲んで美味しく感じたり
からだが調子よくなったなぁ
朝スッキリ目覚めたなぁなど
漢方薬を飲んでよかったことが
起こっているはずなんです。
逆に
からだに必要でない薬になると
苦い、まずく感じたり
ひどいときには
吐き出したりします。
その時飲んだ漢方薬は
からだには必要でなくなった薬なんです。
ですから
飲み続ける必要はないんです。
漢方薬が苦いと思われるのは
すでに合わないお薬を
頑張って飲んでいる証拠。
飲む必要はない薬なんですね。
このように
からだに合った漢方薬を飲み始めると
ささやかかもしれないけど
しあわせになったことを
教えてくれているんだと思います。
実は
ささやかでもいい
毎日しあわせなことを感じながら
生きていくことって大事なこと。
を漢方薬は教えてくれているのだと思います。
漢方薬は
しあわせなことを教えてくれる薬
なんです。
時を超えたお盆
今年のお盆は
みなさんはどのようにお過ごしでしたか?
大雨が心配なお盆
コロナの感染報告がうなぎ昇りの日々で
高校野球も3日連続の順延で
政治家の方々が
自粛生活を叫ばれるとおりの
お盆になった気がします。
いつもと違うお盆をおすごしだったことでしょう。
僕はのんびりと
家族と過ごした夏休みでした。
本を読んだり
DVDをみたり
雨や風の音を耳にしながら
お風呂に入ったり
まさに
時の流れに身を任せながら
時間の流れに身をゆだね
過ごしていました。
時の流れを感じたのは
今という時間だけではなく
過去に戻ることも・・・
半藤一利氏の最後の著書
「戦争というもの」を読んで
その時僕は
戦争が始まる当時に
いました。
戦争に突入し
連戦連勝のニュースに沸き返る人々
でも実際は
先行き不安だらけの日本の状態で
あると言うことに気づかず
報道を信じて。勝つと信じ
生きていたのです。
そして
8月15日の
田辺聖子さんの日記に触れ
「何事ぞ!」と
突然の敗戦の事実を知り
驚愕したと書かれており
まさに本を通して
戦争体験。
偶然にも半世紀前の
日本の状況を
偶々手にした著作から
知ることなり
当時、人々が自粛を強いられながらも
いつになったら
元の自由な生活に戻れることを
望んでいたのだと
どこか現代にも通じる
感覚をを覚えました。
まさに
戦時中も今も
人々の気持ちは
元の自由な気持ちになりたいという
気持ちを持ってるのは同じだ
と言うことを感じました。
そして
その日みた映画
「ナミア雑貨店の奇蹟」
いまだした手紙が32年前から
返事が来るという
時空を越えて交流するという
映画でした。
時計の上では
現在であっても
過去から送られてきたメッセージを
受けた気がした
ちょっと不思議なお盆を過ごしました。
これも
お盆だから受け取ることができた
これからもしっかり生きよという
ご先祖様からのメッセージだったのでしょうか
今日からクリニック平常通り
診療いたします。
よろしくお願いします。
見えない自分の背中
自分のからだなんだから
自分のからだのことが
一番わかっているのは自分。
わかってあげられるのも
自分しかないと思ってしまう。
でも、実際のところ
一番わからないのが
自分という存在では
ないだろうか?
自分のからだなのに
自分の背中を
自分の目で見ることはできない。
人に見せている
自分の顔だって
鏡を見ないと自分の顔すら見ることができない。
うれしい顔も
悲しい顔も
怒った顔も
普通にどんな顔もわからない。
鏡を使ってみても
左右逆の顔しか
知ることができない。
だから
自分については
自分以外の人に尋ねるしかない。
特に
からだが悪い時には
医者などの自分以外の人に
頼らざる負えない
僕自身も
他の人のからだを客観視できるけど
自分のからだは
混乱してしまうことも多い。
だから
相談した相手が
僕の何を見ているのかが
とても大事に思える。
僕のからだを
どんな思いでみてるか?
からだだけでなく
こころも魂も診てくれると
とてもありがたいと思う。
だから僕も
患者さんを診るときには
患者さんが見ている部分だけでなく
患者さんが見えない部分も
診て、伝えて
本当の健康を手にしていただきたいと
思うのです。
座敷わらし
座敷わらしってご存じですか?
名前の通り
こどものお化け?で
座敷わらしが現れた家は
縁起がよく
繁栄すると守り神として
しあわせを運んでくれる神様とも言われ
座敷わらしのでる旅館などは
多くの人が泊まりたがるとか・・・
まさに
繁栄に導く神様と
今でも信じられているのです。
座敷わらしが
家に住む条件は
その家の人が決して驕らず
周りの人たちのしあわせをも
願うことができる人。
座敷わらしが運んでくれたかもしれない
しあわせを
独り占めせず
そのしあわせを分かち合うことに
しあわせを感じるひとに
しあわせを届けるような幽霊?
のような気がするのです。
だから、こんな風な話を
耳にすることがありました。
宝くじが当たった人の
仕事がスイスイうまくいった人の
その後の幸運が続かなかった話。
幸運を手に入れた全ての人で
内だろうけど
その転落人生はよくテレビなどで
話題になります。
それは
きっと幸運を手にした人の
驕った気持ち
それを戒めるために
座敷わらしは
僕たちの心の中にいるのでなにでしょうか?
幸運なことがあっても
幸運を独り占めしたりせず
ちやほやされた自分を
偉くなったと勘違いしない
謙虚な気持ちを忘れないように
しなくてはいけないことを
昔から日本人は
座敷わらしという幽霊がいると
戒めたのでしょう。
オリンピックで
メダルラッシュで湧く日本。
メダルがとれた後のインタビューで
驕らず、謙虚に対応できる選手の後ろに
にっこり笑ってる
こどもの姿を見た気がします。
座敷わらしだったのでしょうか?
自然の声を感じるとき
朝陽が昇る前に
家を出て
氏神様のお参りをして
日の出の時間を迎え
今日も生きていることを
感謝する時間を
毎日過ごせることで
生きていることを実感すると共に
生きていることに感謝し
今日も生きて生きると決意を新たにして
その日をはじめています。
毎日続けられているのは
僕にとって
生きるための儀式になっているのかも
しれません。
そして
同じ時間に家をでても
毎日違った光景を
見せてくれます。
感じさせてくれます。
天気予報では
今日も真夏日だと
夏盛りの日が続くと伝えています。
でも、朝
外に出ると
朝の空気が肌に突き刺さってくるような
感じではなく
優しく感じるのです。
そして、耳を澄ますと
虫の声が聞こえてきたのです。
その虫の声に耳を傾けていると
もう、次の季節に進んでいることを
自然が
母なる地球が伝えてくれている気がします。
自然を感じながら歩き続けると
神社には大きな木があります。
その大きな木に近づくと
木から体全体を包み込むように
柔らかい風を感じるのです。
とっても。とっても
肌に優しい風なんです。
朝は
自然からのそして地球からの
メッセージにあふれています。
地球に生まれ
自然に育まれて
生きていることを実感すると共に
感謝の時間なんです。
だから
僕は1日も休まずに
歩き続けれるのだと思います。
記憶の中のしあわせ探し
今こうして、毎日思いを綴っています。
書き綴る内容は
今の出来事に、医療に
自分自身に対して思うこと
そして
未来はこうあって欲しいと思うこと
などを書き綴ってます。
思いのベースになっていることは
今までの経験や思いです。
ですから
生い立ちなど
自分のこれまでのことを
自分自身を振り返ることにも
なります。
過去の自分を振りかえって
ブログを書くことも多くなります。
過去の自分を振り返る
時間をもちながら
記憶の中にある自分自身を向き合ったとき
気づいたことがあります。
幼い自分は
確かに自分自身ではあることは
間違いないけど
実は自分ではない存在であることに
気づいたのです。
今の僕は
記憶に残っている僕とは
容姿ひとつとっても
全く異なっています。
それだけでなく
住んでる環境も
一緒にいる人だって
違っています。
そして
過去を振り返ったとき
僕が探すのは
楽しい自分、しあわせな自分の姿。
また
不幸せな自分であっても
その時があったから
今の自分があると思える自分探し。
人は
昔がしあわせだと思うことで
いまがもっとしあわせだと思いたいのです。
今も過去も
しあわせな自分でありたいと思って
生きているのです。
僕たちは
いつもしあわせでいるために
生きているのでしょうね。
闘魂の気持ちをもって
最近見た
アントニオ猪木さんのYouTubeは
衝撃でした。
現役時代から強さのオーラがあふれていた
猪木さんのイメージからは
想像もできない
変わり果てた姿に
衝撃をうけました。
老いた姿と言うより
死線を彷徨っているかの姿。
必死で
好きなメロンを目の前にして
生きようとする
ギリギリの感じのメッセージを
伝えようする
アントニオ猪木さんの
強さに感動しました。
人間誰しも
衰えた姿は人には
見せないようにするし
動物でさえ
死ぬところは
見せないようにして
最後を迎えるというのに
アントニオ猪木さんは
どうして?なぜ?と思っていました。
その後
猪木さんのこんな言葉を知りました。
「人生に花が咲こうと咲くまいと
生きていることが花なんだ
生まれてきたことが花なんだ」
そう
生まれてから死ぬまで
生きている限り
生きていくことが花なんですよね。
どんな状態になっても
生きていることが花。
その姿に恥じることはない
と言うことを教えてもらった
強い、強い言葉。
そして、その言葉を自ら実践している
今のアントニオ猪木さんの姿だったんです。
素晴らしい
文字通り強い気持ちを持った
闘魂の男なんですね。
僕もアントニオ猪木さんの
言葉を心に留めて
生きていこうと思いました。
追記
その後もYouTubeを更新され
その時の思いを発信されています。
その言葉をいくつか最後に
ここに記録しておきます。
「今日も生きている
明日はもっともっと元気にいきる」
「次の時代に向けて
発想の展開をする」
「これからは
地球と世界を綺麗に
していかないといけない」
「今、何ができるか?」
1 2 3 ダーーーーー
肉体を監督する存在とは?
からだは、家などの建造物と違って
からだの中身も構造も
時間が経つと変わっていることが
わかっています。
10年も経てば
細胞ひとつから
10年前の細胞と全く別の
細胞に置き換わっているのです。
そして毎日の生活においても
僕たちは
毎日食べ物を摂取し、排泄し
その繰り返しを日々くり返す内に
日々
からだの内容を変えているのです。
それなのに
肉体的変化を
感じながらも
統一した同じ自分、自己を
維持し
生涯ひとつの肉体、人生を形作って
生きていけるのは
不思議だと思いませんか?
自分が、自分としての生涯を生きていけるのは
そこには
自分のからだをまとめてくれている
主宰舎のような力が
働いているからではないだろうか?って
感じるのです。
この力があるから
60兆もある細胞
それも日々変化している細胞を
統一されて
昨日と同じ自分
1年前と同じ自分
死ぬまで同じ自分として
生きていけるのでは
ないでしょうか?
僕たちが
今ここにいられるのは
この僕たちのからだをまとめてる
監督のような力の
おかげなんでしょうね。
この自分自身をまとめている力は
自分がこうしようと思って
できるような力ではありません。
この力は
自分では意識できない
深いところにあり
今の科学では解明できないような
非常に複雑な力、働きであり
この力は
自分だけでなく
生きている人や動物、植物にも
存在し、それぞれに働いているのです。
それは
この地球上の生物だけでなく
地球そのものにも
太陽にも
宇宙全体にも働いている力が
存在してるから
僕たちは、今ここに存在できるのでしょう。
この宇宙全体を統一している力のことを
我々は昔から神と崇めている
存在なのかもしれません。
病気の休日が欲しい
入院中は
日曜日も、祝日も土曜日もなく
毎日決まる
リハビリのスケジュールをこなすのが
入院中の僕の生活でした。
もちろん
先生、看護師さん、リハビリのスタッフさんは
休みがしっかりとれる体制で
毎日おこなわれる
リハビリをサポートしてくれてました。
機能回復ために
1日でも無駄にできないので
毎日、休むことなく
そして、世間ではコロナ感染中の中
リハビリができることは
とても有り難く環境にあることに
感謝していました。
でも
時には休みが欲しいなぁと
勝手なことを思うもですが
病気になった人にとって
僕よりも長く闘病している方もいる
痛み、きつさなどの苦痛と戦っている人もいる
強い治療に耐えていらっしゃる方もいる。
僕なんかより
ずっとずっと
病気に苦しんでる方もいらっしゃる。
・・・・と思った瞬間
今まで担当させていただいた
患者さんの顔が目に浮かび
その思いがこころの中に
こだましたのです。
長く病気をしてる方にとって
一番の願いは病気が治ってしまうことでしょう。
でも、治癒の道はまだ途上だと思っているときに
ますは
一日でも病気の休みがあればと
願うでしょう。
明治時代の俳人正岡子規が
こんなことを書き残しています。
「願わくば、神まず余に
1日の暇を与えて
24時の間自由に
身を動かし、たらふく食を貪らしめよ」と。
また
こどもが病気になった時、親は
わたしが代わってあげたいというのをききます。
僕たち医師としての願いも
病気を治すことが
一番の目的だけど
1日でも病気の苦悩を忘れられる
病気の休日を作ることも
考えないといけないと思うのです