年別アーカイブ: 2021
しあわせのハードルが下がる
病気と健康の状態を比べると
病気になるより
病気にならないほうがいいに決まってる
と誰もが思うだろうし
それは真理だと思うから
人々は病気にならないように
巷では
いろいろな健康法が発表され
僕の元にも
からだのいろいろな悩みを抱えて
訪れる人がいる。
でも
いざ病気になって
それも長い間入院生活を強いられると
病気になったから
わかったこと
それも良かったと思えることがある。
それを
日々忘れないように
こうして少しずつだけど
書き留めているわけだけど
病気になって感じた
良かったことのひとつに
しあわせだのハードルが下がったことがある。
すなわち
今までなんとも感じなかったことに対して
感動することが増えるのです。
例えば
朝起きたとき
昨日全く動かなかった左の指がピクピク動き
ベットの手すりがつかめたこと
・・・・そんなことだけで
うれしくて涙がでました。
朝起きて
毎朝山から日が昇り
色も形も異なる
朝焼けの光景に感動して
写真を撮っては
家族に送ってました。
その他にも
鳥が病室前の手すりに止まっただけでも
会いに来てくれた気がして
喜んでました。
初めて
病院の外を散歩したときは
風が僕の歩みを
応援するかのように
背中を押してくれてるように
有り難く思いました。
食事も
肉と言えば鳥
魚と言えば鮭ばかりだったけど
あるときは煮てたり、揚げたてあったり
カレー味だったり
ムニエルだったり
同じ味ではないことに
感謝でした。
これが健康の時だったら
朝起きても、外を歩いてても
食事をしているときでも
仕事のこと
今やらないといけないことなど
考えることがいっぱいありすぎて
今の太陽の姿も
遊びに来てくれたかもしれない
鳥にも気づくことなく
毎日の食事も
エネルギーとしてからだに放り込むだけの
食事だったに違いない。
なんと
自分の周りにたくさんあったしあわせに
感謝せずに過ごしたことだろうか?
と言うことに
病気をしたことで
気づかされました。
これは
病気をして
しあわせのハードルが下がったから何ですよね。
病気をしたおかげで
しあわせのハードルが下がり
しあわせをいっぱい感じられるようになりました。
ですから
実は病気をしたことにも感謝なんです。
足下の木の葉
その朝
いつものように
氏神様の周りを
竹箒で掃いて
さっぱりした気持ちで
お参りをしていた時の
ことでした。
さっぱりした気持ちで
神様の前で
手を合わせて
ふと足下をみると
足先に黄色い木の葉が
合ったのです。
お参りの前に
はいたばかりなので
こんな目立つ木の葉が
あるはずはない
掃かなかったはずはない・・・と
思って
自分の掃除をしたということを
肯定しようとしてました。
その時
ふと思ったのです。
ここに確かに木の葉があるのです。
もしかしたら
掃いたときにもあったのかもしれない。
その木の葉の存在に気づかず
見ようとせずに
勝手に掃除ができたと
思ってしまったのかもしれない。
掃除完了と
判断したのは自分自身の頭。
つまり
思考だったのです。
実際に
やらないことは
まだ残っていたのに
終了としたのは
自分自身の心。
病気の時も
見落としていることって
多くないだろうか?
原因を頭だけで
考えてないだろうか?
そうしていると
大きな木の葉
つまり大きな原因が
足下にあっても
気づかないんですよね。
頭で見るだけでなく
肉眼の目を
心の目でも素直にとらえることが
大事なことを
足下の木の葉が教えてくれました。
病気の原因は
必ずあるし、示してくれている。
それに気づける生き方を
しなさいということを。
直観力を磨く
現代は多くの情報が
インターネットを通じて
多くの人が
簡単に受け取ることができます。
手軽に
情報を手にすることができるので
便利な反面
戸惑いを感じている人も
多くいらっしゃるのも
今の世の中の特徴だと言えるでしょう。
我々の受け取っている情報量は
時代ごとにに換算すると
平安時代であれば一生分
江戸時代であれば一年分の情報量が
1日に受け取ってる情報量と
言われています。
情報量はどれくらいか
わからなくとも
その量の多さは
現代人の誰もが感じていることでしょう。
現代の人々の生活は
江戸時代に比べものにならないぐらい
激しく、動いているいるので
生きていくために必要な情報量は
格段に増えているのも
確かでしょう。
しかし
全ての情報量が必要かと言えば
決して
そうだとは言えないでしょう。
莫大な量の情報のなかから
必要な情報をピックアップする能力
つまり
自分自身の直感力を
磨く必要がでてきています。
今必要な情報のひとつに
コロナウイルスに関することがあります。
ウイルスがめにみえにものであってり
まだ不明な点も多く
様々の専門家が各々の立場で
意見を述べられるので
全ての話に耳を傾けていると
文字通り目が回ってしまいます。
その情報を
自分にとって有意義かそうでないかを
ふるい分けるのが
直感力です。
直感力は
本来の自分、本質の自分に
訴え判断する力です。
その力は
自分のこれまで経験したの中から
判断するのでなく
潜在意識、超意識を働かせて
判断するのです。
脳の部分で言えば
論理的に考える左脳を使うのではなく
右脳で判断するということだと
思います。
このことを
自分自身の声、内なる声、ハイヤーセルフの声と
言えるかもしれません。
右脳に働きかけて
判断された自分の思いなのです。
その声を常識や経験に根ざした
左脳の働きで
右脳からの直感力にきずかずに
過ごしてしまうことが
多々あります。
右脳からの声は
いつも我々の耳に届いているのです。
それに
気づかないふりをして
我々は生きているのですね。
ですから
直感力を磨くために
①いつも内なる声に耳を傾ける
②その内なる声に従って行動してみる
③行動することで生まれた結果を
内なる声に従って行動した結果であると
自分の行動を納得する
と言う生活をつづけると
あなたは、直感力に従って生きられる
情報に振り回されずに
生きていけることができるのです
自然法則に従って生きている
梅雨明けしました。
梅雨が開ける前の大雨で
多くの人の
目に見えることから
目に見えないこころまで
大きな傷跡を残して
梅雨明けました。
梅雨が開けても
まだ大きな傷跡に
苦しまれてる方がいらっしゃいます。
1日でも早い復興を
こころからお見舞い申し上げます。
梅雨明けすると
雨の心配することなく
安心して朝の散歩を続けています。
僕たちは
天気予報で
梅雨明けしたことを
核心するのですが
朝、歩いてるときに
自然が全く異なるのを
肌で感じます。
まず
空を見上げると
雲が少なく
澄み切った朝焼けの
グラデーションに
思わず足を止めて
空を見上げてしまいます。
吸う空気も
肌に当たる空気も
さらっとして
エネルギーいっぱいの風が
僕のからだを包んでくれます。
そして
耳を澄ますと
梅雨時期に毎晩聞こえていた
カエルの大合唱が聞こえないのです。
変わって
巣立ったツバメのさえずり
そして
暑さでイライラしてるのでしょうか?
お互いを威嚇するような
カラスの鳴き声。
肌で、目で、耳で
自然に気持ちを向けると
確かに
時は流れている。
季が変わった
つまり
梅雨明けしたことを感じます。
そして
感じているのは
人間などの生物だけでなく
自然も生物と同様に
地球全体、いや宇宙全体にある
自然法則を感じているのだと思います。
ニュートンは
リンゴが木から落ちるのを見て
万有引力に気づいたという
有名な話がありますが
僕は
ニュートンのこの話について
最近
この話は万有引力に気づく発想に
結びついたのは
間違いないのでしょうが
リンゴが木から落ちたのは
万有引力の問題だけでなく
リンゴの実が充分熟したので
リンゴ自身の意志によって
木から落ちたのではないでしょうか?
目には見えないけど
リンゴも生きている
生きているものだけでなく
この世に存在する全てのものに
生きている力、意志があるような気がするのです。
地球上に存在する全てのものが
宇宙の法則に従って
この世に存在しているのです。
梅雨が明けたのも
今朝太陽が昇ったのも
今、僕がこうして生きているものも
朝、セミが一斉に鳴きだしたのも
自然の法則に従ってることのあらわれ。
決して、時計、カレンダーをみて
生きているわけではない。
ニュースや科学ではなく
自然を感じて生きる
自然法則に従って生きていることを
忘れてはいけない。
と言うことを
梅雨明けの朝、散歩しながら
感じました。
メタトロンが教えてくれること⑨病がからだと心を操る
病気が発症する前は
心の状態が
からだの状態に影響している。
つまり
病気になる前は
心が主人で
からだがこころの指示のもと
動いていた。
それが病気になると
そのからだと心の主従関係が逆転し
だんだん
からだのほうが主人になっていって
こころがからだの指示にしたがうという
立場が逆転してしまうのだ。
先日
受診された高齢の患者さんは
何年ぶりに受診された。
数年前に
からだのしびれ、睡眠障害などの
症状があり
メタトロンも受けられ
1回だけの受診で
その後音沙汰のなかった患者さんだった。
この数年間で
良くなっていたら良かったけど
今飲んでいる薬を処方してくれと
受診された。
お話をきくと
睡眠障害は続いて
最近専門病院で
薬を調整してもらい
睡眠できるようになったが
その病院が少し遠方にあるので
お一人での通院が難しいので
ご家族の付き添いがないと通院ができない。
ご家族も
忙しく、近くの病院で
薬をもらえたら・・・と思って
思い切って当院を受診されたようでした。
今の薬で
眠れるようになったようだけど
今まで通っていた
病院にいけない理由があるようだ
話していると
それは、物理的理由でなく
不信感などの理由で
いけなくなっているようでした。
少しでも
力になれればと思ったが
今飲んでいる薬は
専門医でないと処方も難しく
その処方までの間に
医師の苦労の跡も
薬歴からも感じられ
僕ができること
しないといけないことは
処方をすることではないと
強く感じました。
患者さんは
眠れないという極限の
からだの状態が
こころをも支配し
こころがガチガチに硬くなり
自分を苦しめている。
からだに支配されている
こころを解放させてあげるないと
この苦しみからはずっと続く。
まずは
今の病院の先生に
こころをむけて
患者さんの思いを届けることから
はじめないと思った。
そのための方策を
いくつかお話して
僕ができる薬の処方をして
その日の診療は終わった。
数年ぶりに会ったこの患者さんは
人が変わってしまったようになっていた。
病気になると
こころも、性格も
病気の状態にあるからだに支配され
変わってしまうのだろうか?
この患者さんを診て
こころが先かからだが先かを
見極めることも
からだの支配から
こころを解放するのも
僕の使命だと思った。
カレンダーと希望
昨年の3月まで入院していたときは
ちょうどコロナパンデミックが
表面化し
入院中の3月初頭に
山口県ではじめて
コロナ感染者がでてからは
入院している病院でも
面会禁止の状態となりました。
病院の外で
コロナ感染症が流行していて
こどもたちは
学校も休校に成り
おとなも
これまでの様々な会合、集会などが
中止となり
入院している者だけでなく
全ての人が
人との接触が制限された世界に
なっていました。
そんな状況の中で
それまでと変わりなく
リハビリができることって
とても有り難いことで
守られていることに
感謝して過ごしていました。
そうは思っても
やはり自由に人と会えないのは
さみしいしつらかったのは
今振り返っても思います。
今も
面会禁止の状態は
続いているみたいですが
僕の隔離生活は
1ヶ月で終了することができたので
その意味ではラッキーだったと
思っています。
でも、今隔離生活を思い
どのように過ごしていたかを
ここに書き留めておこうと思います。
入院中は
カレンダーとよく
睨めっこしていたのを覚えています。
入院生活は
毎日決まった単調な日々でしたが
極端な言い方をすると
今日が何月何日なんて関係ない
曜日感覚も無くなってきます。
カレンダーがなくても
何不自由もなく暮らすことができます。
でも
毎朝、看護師さんに
バイタルチェックされると同時に
今日は何月何日ですか?って
聞かれるんですね。
認知症の確認に必要な質問ですが
日付を意識していないと
今日は何月何日かわからなくなります。
ですから
毎朝
カレンダーをみて
日にちを確認するのが日課でした。
カレンダーは
その日を確認するツールでしたが
退院日が決まると
「あと退院まで何日・・」なんて
退院日までの日を確認するのが
日課になりました。
そして
朝何日だから
今日もリハビリを頑張ろうと
決心して毎日をスタートしました。
そのおかげで
昼間は日付を意識することなく
リハビリに励めました。
そして
翌朝に日付の確認とともに
当たり前だけど、日々
確実に退院までの日が減ってるので
また退院の日が近づいたことを
喜んで
その日を活き活き過ごすことができました。
よく
過去や未来にこだわらず
今という時間を真剣に生きていく
”中今”な生き方が大事だと言われますが
僕が入院したときに
退院日をカレンダーで確認でき
退院日に向けての希望をもてたので
その日を充実して過ごせたのだと思います。
未来を思い描いて生きる生物は
人間だけかもしれません。
他の動物は過去も未来もなく
今を一生懸命生きている姿に感動します。
人間が希望を持つのは
人間は弱く、挫折しやすく
中今を生きることを忘れてしまうので
中今を生きられるように
神様が希望をお与えになられたような気がします。
希望を持つこと、夢にむかって生きることは
人間に与えられたよく生きるための力
何だと思います。
オリンピック開幕まであと10日
希望、夢を持って
今日という日を全力で
過ごして生きましょう
物語を語ってください
目の前の患者さんに対して
最善の治療をするために
我々医師は日々努力していますが
病気の種類も含め
接する患者さんの症状、訴えは
多岐にわたり
医療も進歩する中で
患者さんに常に最高の治療をするためには
医師ひとりの経験だけ
医師ひとりの研究勉強だけでは
十分とは言えません。
そこで
皆の経験した治療法などを
分析して
病気に対する
道標を科学的根拠に基づいて
示したのが
EBM(Evidence-Based Medice)と
いわれるものです。
このEBMのおかげで
どこの病院であっても
医師の自身の経験に左右される治療を
患者さんは
受けられるようになりました。
しかし
最近は、EBMにこだわりすぎ
EBMが標準治療だから
EBMじゃないといけないという
風潮が強くなってきた気がします。
ここで
間違ってはいけないのは
EBMはじゃないといけないわけでは
ないので
EBMに縛られることは
ないのですが・・・
この治療に当てはまるように
治療を進めてしまう
傾向に陥りがちです。
患者さんの病気になった理由、経緯、症状
そして
病気についてどのように考えているのか
どうしたいのかなどの
患者さんの思いは加味されずに
基準とされる血液検査、画像検査などの
結果のみで判断、実施され
目の前の患者さんのことより
データーばかり見ているという
批判につながっているのでは
ないでしょうか?
ナチュラルメディカルセンターでおこなっている
メタトロンでは
みなさんに1時間の時間を作ってもらって
施行しています。
またメタトロン中であっても
特に患者さん自身の行動を規制することも
ないので
メタトロンの結果を含めて
患者さんと様々なお話をします。
毎日どんな生活をしているか
何が心配かなど
ご自身のことだけでなく
ご家族のこと
お仕事のこと、コロナウイルスについてなど
お話の内容は
多岐にわたります。
実は
この1時間のお話は
とても重要なんですね。
この会話から
患者さん自身が抱えている問題
どう生きていきたいか
何を求めていることが
わかることがあります。
そうすると
例えEBMに添った治療をおこなっていても
根本治療とはとはならず
EBM的治療だけでは
根本的治療が難しいことを
感じます。
その様に感じるのは
決して僕だけではなく
最近ナラティブ・ベイスト。メディスン(NBM)も
必要であると訴えられる医師も
増えてきています。
NBMは
患者さんが語る物語から
病気になった理由、症状、考え方などの
患者さん自身が抱える問題を
全人的に把握し
そこから
最善の治療法を考えていこうという考え方が
出てきています。
病気の原因は
患者さんひとりひとりで異なります
ですから
治療法もひとりひとりことなります。
ですから
NBMも加味して
治療をおこなう必要があると思います。
僕は
これからも
患者さんに対して
いつもOPEN HEARTで
患者さんの言葉にいつも耳を傾けられる
医師でいようと思っています。
神の声に耳を傾けた科学者~村上和雄先生~
この春
医学界にある意味大きな足跡を残された
遺伝学者村上和雄先生が
静かに逝かれました。
村上先生は
高血圧を引き起こす原因となる
「ヒトレニン」を発見されたことで
有名な先生で
長年生命科学の現場で
遺伝子の研究に携わって来られ
ひとつの結論に至ったと言います。
それは
遺伝子にある、多くの情報
遺伝子記号を解読しても
まだわからないことだらけで
あることばかりで
先生も
「遺伝子の暗号を解読するのは
すごい進歩かもしれないけど
暗号を書いた存在は
もっとすごい存在にきずかれ
そのすごい存在のことを
「サムシンググレイト」と名付けられました。
そして村上先生は
科学者は
このサムシンググレイトの
メッセージを説く必要があるのだ
と思います。
科学者は
サムシンググレイトのメッセンジャーに
なることを目標にしなければならない。
メッセンジャーのなるために
必要なことは
今、この瞬間が、今日が
しあわせだと感じることが
大事だと言われています。
たとえ
病気の時でさえ
これもサムシンググレイトからの
メッセージなのかもしれません。
病気は
「もっと素晴らしい人間にしてくれるため」の
サムシングレイトが与えてくれた
試練なのかもしれません。
その試練があるのは
サムシンググレイトが
もっとしあわせになって欲しいから
与えてくれた試練なのです。
病気の時にも
しあわせを見失わないように
しないといけないのでしょうね。
全てのヒトの心の中には
仏様、神様、サムシンググレイトが
いらっしゃると思います。
呼び方は違っても
どれも同じ存在何度と思います。
ですから
我々はみんな
神の子なんだといえませんか?
こどものしあわせを願わない親はいないように
サムシンググレイトも
あなたのしあわせを願わないはずはありません。
それは
健康の時も、病気の時でも
サムシンググレイトの思いは変わらないはずです。
ですから
どんな時も
サムシンググレイトメッセージに耳を傾けて
生きていくことが
あなたをしあわせの道に導くと
神に出会った村上和雄先生は
我々に
サムシンググレイトのメッセージを
伝えてくれたのでしょう
諸行無常
仏教が教える真理の中に
「諸行無常」があります。
「諸行無常」の意味は
「この世の全ての万物は
常に変化していて
一瞬たりとも
その場にとどまることはない」
という意味です。
これは
仏教世界だけの真理かと思っていたのですが
このことを
最新の科学「量子力学」でも
証明されてきているのです。
量子力学の父と言われる
マックス・ブランクは
「万物は波動である。いかなる物質も
存在しない」と逝っています。
つまり、この世に存在するものは
全てが波動エネルギーでできていて
宇宙の全てのものが
無限の波動エネルギーでできている
ということなんです。
波動エネルギーを自然界の現象で言えば
波のうねり。
海に寄せては返す波のようなものと
考えられます。
つまり
波もその場にとどまることがないように
波動エネルギーでできている全てのものは
その場にとどまることもなく
うねりの中にあると言うことがわかったのです。
また
「諸行無常」の無常が
無情でないこともポイントです。
無情とは変化です。
宇宙のエネルギーは常に変化しています。
全てのものがうねりとして
存在しているということが
わかってきたのです。
つまり
諸行無常は
この世はこのうねりの世界にある
といっていたんですね。
また
この宇宙のうねりの中にいるものは
自分のからだも
宇宙の一部分であり
宇宙のうねりのエネルギーでできている
ことになります。
だから
我々のからだだけでなく
生きている人生も
とどまることはない。
人間の持つ生老病死などの四苦八苦さえも
人生というエネルギーのうねりの
一部分でしかなく
常に変化していると言うことなんですよね。
人生は
山もあれば谷もあります
これは
波動エネルギーのうねりに生きているので
今起こっていることを
嘆いても、喜んでも
仕方ない。
万物は生々流転していて
エネルギーのうねりの中で生きていることを
意識して生きていきなさいと
「諸行無常」という言葉は
教えてくれているんでしょう。
痛くない死に方~医師の使命とは?~
神戸で在宅医として
頑張っていらっしゃる
長尾和宏先生原作、監修の映画を診た。
終末期医療の映画や話は
これまでも
数多く世の中にでて
多くの人に観られている。
しかし
その内容は
ファンタジー仕上げだったり
感動させるような意図を感じたり
物語として
観てしまうことが多かった。
もちろん、それでも
終末期医療、誰にも必ず
訪れる人々の死について
考えさせられる映画であるので
それはそれで
大切なメッセージを伝えてくれる
素晴らしい作品が多かった。
しかし、この映画は
リアルで働いてる長尾先生が
先生の日々感じていることを
先生の視点で描いているので
全てに
偽リのないリアルさが
医師としての自分の心をえぐる。
また、
今がコロナの時代であり
病院に書かれず在宅医療を余儀なくされ
入院しても
孤独に病気に臨んでいる人もいる
だから
患者さん側の話、劇中で紹介される川柳に
様々な患者さんの思いが
代弁されていた。
長尾先生はこう仰っている。
「食べることが生きること。
生きることは笑うこと。
生きることは歩くこと」なんだと
「木が枯れるように静かに終わる」
死にの先はわからない
現代科学では、その存在すら
証明できない。
死のその後は
想像するしかない・・・
でも
証明することはできないが
僕は
死が訪れて、肉体が滅んでも
その後も僕たちは別の形で生き続けるに
違いないと思っています。
だから
死で全てが終わるわけでなく
その先にまた何かが始まる。
だから
どのように死という旅立ちの瞬間を迎えるかを
迎えるかは大事。
僕は
医師として、長尾先生のように生きるには
力不足であると感じた。
でも、いい旅立ちができるように
日頃の生き方を伝えることが
僕の使命ではないかと思う
と言うより、
次の道を示し、
やすらかにその瞬間を迎えられるように
導くのが僕の使命なんだろうと言うことに
改めてきずかされてもらった映画だった