年別アーカイブ: 2021
ニュートンが生きた時代と現代との関係
ニュートンと言えば
万有引力などの古典物理学を確立した
誰もが知る大物理学者であります。
ニュートンが生きた時代は
17世紀のことで
今から350年前に活躍しましたが
この時代は
昨年末まで続いていた
土の時代の始まりの時期だったんですね。
*ちなみに現在は
風の時代なんですね
詳しいことは
5/27のブログに書いているので
見て下さいね
土の時代は
ひと言で言えば
物質中心の時代で
当時錬金術など
お金、経済などが第一に
考えるようになった時代のはじまりなんですね。
歴史はくり返すと言いますが
ニュートンが生きた時代は
土の時代に変化する時期で
世の中の変化が
風の時代に変化している現在と
類似する点が多いんですね。
ニュートンが生きていた
1665年6月にペストが大流行しました。
ペストはネズミが媒介する伝染病で
当時原因も治療法もわからず
死に至る病で
”死病”と言われています。
当時
人から人に感染が広がることは
認識されていたようで
人の接触を制限され
ニュートンが通っていた
大学も閉鎖され
帰郷していたようです。
帰郷している間
今のようにオンライン講義などは
もちろんありませんでしたが
この時期に、ニュートンは
スペクトル分解、万有引力、微分積分など
その後の科学発展に大きく貢献する
理論を発表しています。
1665年6月から始まったペスト流行は
その後18ヶ月続き、終息したようで
この時期、ニュートンの活躍で
発展が滞ることなく
飛躍的に発展し、科学発展に貢献したので
物理学の世界では”奇跡の18ヶ月”とも呼ばれています。
時代が変わるときには
パンデミックのような
人類の危機に襲われるのかもしれません。
今回もコロナウイルスのパンデミックに襲われ
その中で
人類はこの危機を乗り切り
今後の世界を作り出す
知恵と力を蓄えているのでしょう。
そして
コロナ感染が終息したときには
素晴らしいこれからの時代に合った
現代にあったニュートンのような
人智が出現する気がします。
ニュートンは
もしかして
この時期神様に出会い
神から時代を切り開く目的、力を
委託されたから
奇跡を起こせたのかもしれません。
これからの時代を切り開くのは
今を生きている
あなたかもしれません。
メタトロンが教えてくれること⑥病名に怯えないために
先日メタトロンえお受けられた方は
別件で入院していて
偶然胃癌と診断され
心配や不安が募り受診された。
思いもかけない診断名に
まさに晴天の霹靂で
主治医の先生に
次々に検査の予定を立てられたが
混乱したままで
次のステップに進むことに
納得もできず
現状での検査での外科の医師に
説明を受けることにした。
精査は必要だけど
胃癌の可能性がある。
手術困難な部位にあるので
治療は内科的なものが
中心になるだろうと
説明をうけたようだ。
体感的には
やや体重は減っていたものの
食欲もあり、痛みなどの苦痛もなく
まさに、晴天の霹靂のできごとで
頭が混乱してる上に
とても几帳面な性格の面もあるようで
今の状態で
これから検査治療をすすめ
からだがどんどん疲れ果ててしまうことを怖れ
別の観点からからだの状態を知りたくて
当院を受診し
メタトロンをうける運びになった。
早速メタトロンを受けてもらった。
確かに
胃には破壊性のエネルギーを認め
確かに病変の可能性がある。
ただ、病名を探ると
現段階で胃癌とは言えず、
まだ胃癌の前段階も含まれる
過形成の胃炎だと思われ
胃癌の前段階
胃の治癒力を上げることで
対応可能かもしれない常態とも
考えられた。
更に
全身検索を続けると
一番変化が大きかったのは
脳の状態である。
かなり破壊のエネルギーが強かったからなのか
今は、その破壊のエネルギーの修復する
段階になっていることがわかった。
メタトロン的には
ある意味
脳の方が胃よりも心配の常態だった。
きっと
胃の病変は確かにあったが
それよりも
胃癌という大変な病名によって
悩み、脳が疲れ切って
病名そのものがからだを支配し
病気を作っている状態が
今改善すべきだということを
示していた。
胃の病変を治すためにも
免疫力を自ら高めることは
どんな治療をするにも
必要なこと。
そのために
楽に楽しく、喜びをもって
生きて欲しい。
からだのことは
僕たちがしっかりサポートしてるから
自分の望む人生を生きて欲しいと
自らのからだが言っている気がして
そう、患者さんに伝えた。
すると
患者さんの表情が明るくなり
からだが温かくなってきた
と笑顔で帰られました。
これから
様々な困難なことがあるでしょう。
でも、頭で病気を作らないように
からだの思いを正直に伝えることが
僕ができることなんだと
患者さんの生きていくという決意にも感じながら
見送りました。
しあわせの方程式
一般的というか常識的には
しあわせを感じるときは
欲望が満たされたときと考えられてます。
つまり
「しあわせ度=欲望分の充足」で
分母が欲望の量で、分子が現況での充足で
表されると思います。
例えば1000万円ほしいなぁと思っていて
現在500万しか手元になかったら
しあわせ度は500万/1000万で
しあわせ度は1/2と表現できるとも
言えますが
・・・・実際は
この方程式通り
手元に500万円以上手に入れられると
実際は
しあわせ度がますかと言えば
中々この方程式通りにはいっていないのが
現実ではないでしょうか?
それはなぜなのか?
僕はしあわせ度は
欲望がどの程度を満たされているかで
計るものではなくて
「しあわせ度=少欲分の知足」で計るもの
だと思うのです。
つまり
出来るだけ良くを減らして
今現状で足りていることを自覚して
生きていくことで
しあわせ度を計るのです。
生きている限り
欲がなくなることはありません。
究極的に無欲ならば
分母は0になりますが
分母が0nなることは
この方程式は成り立ちません。
つまり
欲を少なくすると
動詞形で考えたほうが
いいかもしれません。
欲を少なくしようと生きている中で
少ない状態でも
「ありがたい」とどれだけ思えるか
ということではないでしょうか?
世の中の事件をみても
お金が元になったトラブルは後を絶ちません。
お金に絡む欲望は
少なくなることはありません。
雪だるま的に
どんどん増えるばかり。
ブレーキが効かなくなります。
餓鬼は
欲望の奴隷になった姿だと
言われます。
今の資本主義中心の世界の中で
自分自身が餓鬼にとりつかれていると
気づいている人は
どれだけいるでしょう。
欲望の奴隷になると
その欲望が
貨幣への信仰のもと
進歩、発展という信念のもと
技術発展することが
至上課題だと
信じてやまなくなり
進んで言ってしまうのです。
そこには
他の人のことを考える
思いやり心はどんどん薄くなっていることに
気づいているのでしょうか?
世界の平和の祭典である
東京オリンピック開催が
迫っています。
オリンピックが
人間の欲のはけ口になっていないことを
願うばかりです。
なかなか終息しないコロナウイルスが
「もう、多財がしあわせだと言う世界から
足を洗って、新しい世界を生きていきなさい」
と言っている気がします。
人はなぜお酒を飲むのか?
コロナ感染症が出現し
1年以上を経ちますが
この1年、いつも
飲食店、特にお酒を提供するお店が
ターゲットされ
クローズアップされます。
お店が悪いわけではないし
何かいい方法はないのか?と考えてしまいますが
なかなか名案は浮かびませんが
お酒について考えないと
いけない時期に来ているのではないでしょうか?
お酒で
人生が大きく変わってしまうこともあると
今までの報道でも
自分のこれまでの人生でも
感じることがありました。
お酒には
魔力があるのだと僕はあるのだと
思うのです。
そのお酒の魔力を知って
対応して生きていかないといけません。
お酒に対抗するものとして
僕が注目しているのは
オキシトシンというホルモンです。
こんな実験があります。
オキシトシンを投与すると
アルコールに対する欲求
そして
アルコールの消費量も減るというのです。
これは
たばこに含まれるニコチンに対しても
同様の結果であったというのです。
つまり、オキシトシンには
「お酒をもっと飲みたい」
「たばこをもっと吸いたい」という
衝動を抑える作用があるのです。
もう少し医学的に解説すると
オキシトシンには
お酒をもっと飲みたいと感じさせる
ドーパミンを抑える効果もあるからなんです。
それでは
オキシトシンの分泌を増やすためには
どうしたらいいでしょうか?
オキシトシンは絆を深まると
多く分泌されることがわかっています。
つまり
絆が深まり、オキシトシンが分泌されるので
「楽しい」「うれしい」「しあわせだ」といった
幸福感が生まれてくるのです。
絆が深まる
環境が整えば、整うほど
オキシトシンが分泌され
しあわせを感じるのです。
ですから
家飲みをするより
居酒屋などや
例え公園であっても
みんなでわいわいして飲んだ方が
オキシトシンも多く分泌されるので
楽しくて
路上のみが増えるのも
当たり前のことなのです。
今はコロナウイルスを防ぐ観点から
仕事さえテレワーク
密を避け
人の接触をさけることを
求められる時代になっています。
感染を防ぐためには
やも負えないことかもしれませんが
しかし
それでは、オキシトシンの分泌も減り
しあわせな生き方ができなくなります。
ですから
感染対策しながらも
絆を深める生き方
つまり
家族との絆を深めるなど
リアルでは
本気、本音の付き合いできる
関係を深めるなど
お酒の飲み方だけでなく
人との付き合い方も
考えていく時代になってきたのでしょうね
モーニングセミナー
僕は
退院してから
毎朝近所の神社のお参りをするのが日課。
昨年は
雨や風が強いときは
歩いて行くことは危険なので
数日お参りできなかった
こともありましたが
今は、少々雨が降っても風が吹いても
傘を指しても
歩けるようなったので
昨年12月から今日まで
連続毎朝お参りができています。
朝も4時に自然に目が覚めて
空が白みはじめる4時半過ぎには出発
歩いてる内に
日の出の時間を迎えるのが日課なんです。
朝は
地球全体がエネルギーにあふれ
動物も植物も
そのエネルギーをいっぱい浴びてるから
元気でいられるんだと
僕もエネルギーをいっぱいいただいてるから
日々元気に過ごせているんだと思ってます。
今は
目覚ましもいらず
自然に目が覚め
朝起きが苦にもならず
当たり前に起きていますが
はじめから朝起きの習慣が
できた訳ではありません。
自分は
地元の大学出身ですが
卒業後は九州に戻ったので
今のクリニックで開業しようと決断した時
僕の思いをわかって
力を貸してくれたのは妻しかいない
たったひとりでの出発でした。
医療コンサルにもお願いしたりもしましたが
裏切られたり
笑顔の奥の裏の真意がわかったり
人の冷酷な面を接し
打ちひしがれてた時期でした。
その時出会ったのが
経営者の勉強会の集まりでした。
その会は
週1回朝6時から集まって
経営者のどん底から這い上がった経験から
得た思い、やり方など
まさに、その時の自分の境遇にもマッチして
毎週朝6時からのセミナーに
頑張って!早起きして起きて
参加しました。
早起きはつらかったけど
セミナーから帰って仕事はじめるときには
元気いっぱいで
やっぱり早起きは三文の徳だと
実感して、その会にはまりました。
その後
その会の会長までさせていただきました。
会長になると
理由なく休むことなんてできません。
寝坊するわけにはいかず
それまで以上に
目覚ましを念入りにして
寝るようになりました。
おかげで
寝坊することもなく
務めを全うさせていただきました。
そして
会長の間、目覚ましはかけていたけど
いつも目覚ましがなる前に目が覚めて
起きていました。
会長が無事終わっても
朝目が覚める習慣は残りました。
目覚ましを使わずに
起きたい時間に
起きれるようになっていました。
病気になって
その会の参加が難しくなって
今はやむなく退会し舞いましたが
今も自然に4時に目が覚めるから不思議です。
当時は、起きないと思っていたから
早起きできていたと思ってました。
忙しい経営者の会で
朝早く集まって勉強するのは
朝の時間は、他の仕事に左右することなく
自分の意志で作れる時間だから
その朝の時間に勉強時間を設定するのがいいのだと
思ってました。
もちろん、それもあるでしょう。
今もこうして朝自然に起きれること
そして
朝歩いていると
そのセミナーで学んだことを
追体験できる感覚に包まれるんです。
まるで
ひとりで、毎日そのセミナーに
参加しているような感じなんです。
講師は
創始者の丸山敏雄先生。
そんな贅沢な時間を毎朝過ごさせてもらっています。
今こうして起きれるようになったのは
丸山先生のお導きよって
徐々に起きれるようになり
直接学べるように
していただいたような気がします。
僕は、今でも
丸山敏雄先生の弟子と思っています。
これからも
毎朝先生直々の
モーニングセミナーに参加します。
医は医なきを期する
医師として
人生の半分の時間を
生きてきました。
医師という仕事に
ゴールはなく
日々勉強の毎日
医学が進歩するから勉強を
しないといけないけど
本当に勉強しないといけないことは
真実の医療の姿を
みつけ、確立するためなんだと
月日が経つにつれて
思うようになりました。
まだまだ道は途中ですが
今、思う医としての道は
「医は医なきを期する」と言うことです。
今までの医学の進歩は
強引すぎて、本質から外れた
少し行き過ぎた方面に進み過ぎている気がします。
効果の有無を追求しすぎて
医学本来の目的
「医は医なきを期する」と言うことを
忘れかけていることに気づいたのです。
つまり
医の目的は
この世から医の力を借りずに
生きられる世にすること。
つまり
医が除去された世の中を
目指していくことが
本当の医療の目的なんだと言うことに
気がついたのです。
医は
病気を治すだけが目的なのではなく
再び病気に冒されないように
導いていくべきなのです。
医者の手を借りずに
病気知らずで生きていくためには
元々持っている
自己抗体の抵抗力や自己治癒力を
生かす道を生き
そのために自分の生きる道を
確実に歩んでいく精神、心を強くする
その生き方ができているかを
見届け、指南するのが
医者として生かしていただいた
僕がたどりついた
僕の医師としての道
医道でもあります。
最後に、もういちど言います。
人のからだには
元々自然治癒力をもって生まれています。
ですから
医療は
病気を治すだけで足ると思うことなく
医なくとも生きられる術をお伝えすることなんです。
それが、僕の目指す
「医は医なきを期する」ということなんです。
祖父の見守り
先日1年ぶりに
MRI検査を受けてきました。
医者のくせにといわれそうですが
思い切って告白すると
MRI検査は苦手なんです。
これまで
何度も患者さんには
MRIを受けていただきました。
じっとしてないといけないし
CTに比べて時間がかかるし
音もするし
こどもの場合は
お薬で眠ってもらって
検査をしていました。
敏感なこどもたちは
何かされると予感するのか
興奮してるのか
鎮静できず、興奮状態もつよくなって
後日に予約を取り直して
再チャレンジを余儀なくされることもあり
MRI検査は
主治医としても
プレッシャーの検査でした。
そのMRI検査を
今回の入院中に
初めて受けることになりました。
耳につく
うるさい騒音のする
MRI室で
じっと、じっとしないといけない
ということを
初めて経験しました。
正直な気持ち
苦痛でした
閉鎖空間で動けないのは
拷問にも感じ
次は無理・・・と思いました。
退院後受けたときも
初めての病院だったし
今後も診てもらうので
覚悟して受けましたが、
たまりませんでした。
できれば
次回は短時間で済む
頭部CTをお願いしようと
思ったのですが
先日
1年ぶりにMRIを撮りましょうと言われたとき
閉鎖空間が苦手なので、できれば・・・といいかけると
そうですか、鎮静の薬を使いましょうか?と
提案されましたが
自分はおとなだし
そんなことはプライドが許さず
覚悟して受けることにしました。
どんな拷問でもうける覚悟で
MRI台に横になりました。
始まりました。
落ち着くために眼をつぶり
深く呼吸を意識していると
ふと
思い出したのです。
僕が
大学生のとき
電気工事をひとりでしていた父が
漏電して
入院したことを。
その時、ヘルメットと、
金属製のものを使ってたので
電気の流れが変わり
頭をかすめた程度で
電気がからだを貫通するのを免れ
一命をとりとめたことがありました。
また
父は10年以上前、脳梗塞を起こし手術もしましたが
全く麻痺などの後遺症もなく
元気に今でも暮らしているのです。
そして
今回僕も
脳出血を起こしたけど
仕事も生活も変わりなく復帰しています。
そんな父のことなどを
まぶたに思い浮かべていると
僕が
生まれてまもなく他界した
僕の記憶の中には全くない
祖父が現れ
大丈夫、心配するな、治してるぞと
いいながら
僕の頭をなでてくれているのでした。
そういえば
祖父は祖母の介護の疲れから
脳出血を起こして亡くなったという
話を聞いたことがあります。
僕も、父も
祖父から守られてたんだ
同じ陽気で苦しまないように
守ってくれたんだ。
今も、寄り添って下さっている。
感謝の気持ちで
胸が熱くなり
長いはずのMRI検査も
あっという間に終わりました。
結果は
祖父の思いのおかげで
何も異常はありませんでした。
実際会ったことのない
全く記憶のない
おじいちゃんに会い、
今にも続く愛情を感じた時間に
感謝でした。
安心安全の世界とは
オリンピックの開幕日が
日に日に近づくにつれて
どのように
コロナウイルスと共存していくかを
人々に突きつけられ
様々な人が
オリンピックとコロナウイルスについて
様々な人が
意見を交わし
議論は過熱していってるが
中々結論に至っていないのが
現在の状況です。
そのなかで
飛び交っているのが
「国民のいのちを守る」
そして
「安心・安全」という言葉。
何度も聞いていると
当たり前のことを言ってるようだけど
実は
その意味をよく考えないといけないと思います。
そこで今回は
「安心・安全」について。
安心・安全は
言葉上はよく似てる気がしますが
実は意味の上では全くちがう言葉何です。
安全とは
危険を取り下げること
または、危険のリスクを下げることです。
安全を達成するためには
誰もが納得できる基準
特に科学に裏打ちされた基準が
求められます。
例えば
シートベルトは車の死亡事故を減らす
とか
感染については
感染源を特定し、感染経路を断てば
感染を抑えることができるなどのような
誰もが納得する科学的根拠が
存在しています。
ですから
データーを示すことで
人々は納得できるのです。
それに対して
”安心”という言葉には
科学的根拠は存在しません。
人々の頭の中に浮かんだイメージ
すなわち
人が作り出した幻なんです。
安心という言葉には
科学根拠というものは存在しません。
そこにあるものは
安心という言葉を発した人が
”安心”したいという願望を表した
言葉なのです。
その言葉は、
こうありあたいという願いを表した
言葉なのです。
菅総理大臣は
安全・安心の言葉の意味を踏まえて
発言されると
国民はもっと納得するのでは
ないでしょうか?
どんな行動をすると
どんな効果が起こり
感染リスクが下がるから
安全なんだと。
これだけリスクが下がると
人々が
安心した気持ちで
オリンピックの開催を喜べると。
今のままでは
総理が、国だけが
安心できる方向に進んでるのかとおもうほど
人々は安心できてないから
先行き不安なのだと思います。
僕も診療中や日常生活でも
よく使ってる言葉ですが
言葉の意味をおかみしめながら
使っていきたいです。
万象我師
この春
ミニトマト、ズッキーニ、レタス、獅子唐の苗を
いただいたので
プランターに植えて
日々の成長を
毎朝チェックするのが
毎朝の楽しみであるとともに
元気をいただています。
昨日は
ズッキーニに花が咲きました。
ズッキーニの花は
大きなま真黄色なので
存在感がとてもあり
花を見つけた時には
こんなに大きくなったと
喜びの瞬間なのですが
花を見た時に
次は立派なおいしいズッキーニの実を
つけてほしいなぁと
自分本位の人間の欲しかない
思いが沸き上がってきて
純粋に花の美しさを愛でられないの気持ちに
気がついて
悲しくなりました。
でも
ズッキーニは
僕の思いなんんて、気にもせず
必死で生きていることに
今日気がつきました。
今日は朝から雨が降っていたので
ズッキーニの花をみて
ズッキーニから元気をもらおうと
いつものように見に行くと
今日は
花開いてないんです。
花びらを閉じて
雨が花の中に入らないよう
花粉が雨で流されないように
必死に花を閉じている姿に
思えて仕方がなかったのです。
自然は様々に時々で変化します。
そのことを嘆いてもしかたない。
受け入れて
守るべきものはしっかり学ぶ。
そんな
力強い生きるためのメッセージを
雨にうたれているズッキーニの姿から
学びました。
万象すべてわが師なんですよね
正しい栄養の取り方
我々人間のからだを構成する物質は
リンとか鉄とか亜鉛とか水とか
地球の自然界普通に存在する元素から
できています。
生体独特のものというものは
何一つありません。
従って
僕たちのからだは
構成物質がなんであるかより
これらの物質の結びつき方
体内での相互の影響しあってることが
重要だということでは
ないだろうか?
体内の構成物質、元素が
凝集して、外界からの力に
かき乱されないように
その物質が持っているエネルギーの力を
遺憾なく発揮して、利用できることが
重要ではないかと思います。
この成分が不足しがちだから
この栄養、食品をとらないといけないと言うことは
気を使ってる方は
多くいらっしゃいますが
その成分が道のように使われているかを
考えながら
摂取している人は少ないことでしょう。
外見は同じ
水晶、ダイヤモンドにしても
粉々にしてしまうと
水晶は六角に、ダイヤモンドは八角に割れると
言われます。
水晶もダイヤモンドも
構成成分は同じでも
外から受けたエネルギーで状態が
変わるということでしょう。
ですから
同じ食品であっても
例え
からだに悪いというものであっても
あなたの持ってるエネルギーによって
よくも働くこともあり
悪くも働くことにもなると言うことです。
ですから
あなたのからだの細胞
からだを形作っている成分一つ一つが
健康状態で働くためには
健康を意識するだけではなく
趣味、強要、知識、感情や
その人を取り巻く
家庭環境、社会の経済状態を含め
個人生活から社会事情に至るまで
幅広く影響していることを
知っていないといけないし
そして、そこも整えなければ
健康になれないと言うことも
知っていないといけないのです。
ニュートンが
リンゴが落ちたのは引力があるから
と万有引力を発見しました。
僕は思うのです。
確かに万有引力は確かにある。
リンゴが落ちたのは万有引力のせいだけではなく
リンゴからしたら
風の力や、熟した時期など
落ちる時期を感じたから
また、ニュートンに食べて欲しいと思ったなど
落ちるための様々なエネルギーを感じたから
木から落ちたのかもしれませんね。
生きていくためには
様々な力が働いていることを
知らないといけないのだと思います。