年別アーカイブ: 2021
お終活
お終活という映画を観に行った。
死の瞬間を取り扱った映画と言えば
「看取り師」という映画を見たが
これは、最後の瞬間を取り扱った映画
だったけど
これは
死の瞬間をどう迎えるかを
考えさせられた
シビアな映画だったが
お終活という映画は
伊丹十三監督で大ヒットした「お葬式」
に似た
死の瞬間をどう考えていくかを
コミカルなタッチで描かれた映画。で
100年時代と言われる中
死の準備も考え準備しておく
終活をすすめられる機会が日常的に
増えていて
どこか人ごとではないテーマだけど
死そのものというより
人が年とっていくうちに
誰にも訪れる問題点を
笑いと共に描いた
コメディーだけど
その中に含まれる人生の悲哀をも
感じられる映画だった。
でも
笑いながら見ていたけど
主人公の葬儀屋の社員が
お客さんから死について聞かれたときに
それはわからないと答えていた。
死についてはもちろん
誰にもわからないし、経験もしてないから
答えようがなにのは
しかたがないことというか
当たり前の答えだったと
ただのたわいもない科白だったと
聞き流していただろう・・・
しかし
その前にエジプト展で
2000年以上前の人々が
当たり前のように信じていた死後の世界を
肌で感じていたので
科学の発達していない古代人と比べ
現代人の死に対する思いが
少し軽く感じてしまうのはなぜだろう?
そこが気になって
仕方なくなり、
現代人が死そのもの、死後の世界を
感じにくくなったのはどうしてだろうか?
映画を見終わった後
その点を自分なりに考えてみた。
現代人が死を感じにくくなった訳は
次回のブログで
エジプト展
山口美術館で先週末まで開催されていた
オランダのライデン国立古代博物館所蔵の
古代エジプト展に先日行ってきました。
エジプトといえば
ピタミッドやミイラなど
古代エジプト人の考えた
死後の世界を感じたくて
エジプト展が開催されると
必ずといっていいほど
行くようにしている。
今回は、2回も行ってしまったのですが
本当に行って良かったです。
有名なロゼッタストーンが見れたり
死者の書が刻まれた
鮮やかな棺や装飾品の数々
そしてミイラの展示。
ミイラは人間だけでなく
ネコ、ワニのミイラも展示されてたので
びっくり。
そして
圧巻だったのは
ミイラをCT撮影した
画像の紹介。
現代でも遜色ない骨格
腫瘍が見つかったり
歯の状態がわかったり
お腹の中になぜかお人形が入ってることがわかったり
その今はミイラになってるけど
その人自身の歴史を感じずにはおれなかった。
エジプト展を見ていると
エジプト人は
明らかに死後の世界があり
またこの世に帰ってくる
輪廻転生があると信じていた。
永遠に生きるために肉体が必要なので
ミイラを作るのです。
肉体だけでなく、人には
「ばぁ」とよばれる魂があり
人は死ぬとばぁの状態で
葦の野といわれる来世で過ごすことになります。
そこは現世と変わらぬ風景の世界で
食べ物なども必要な世界で暮らすのです。
死は終わりでなく
死は来世と現世を繋ぐものだと考えたので
来世でも
しあわせに暮らせるように
またこの世に戻ってきても困らないように
様々な準備をしたのですね。
昔の死生観って
実は現在よりも進んでたのかも
思うようになりました。
また別の日に
「お終活」という映画を見る機会があり
ますます現代の死生観の
あやふやさを感じてしまうことになるのですが
映画「お終活」の話は
次回のブログで
直観力
昨日のブログで
魂を磨く源の力は
直観力という話をしました。
今回は
直観力について
直観力とは
論理的な思考や
意識的な観察を介さずに
魂とこころを直接的かつ無意識的に
意思決定の判断することができるように働く
プロセスでもあり力そのものと言えます。
別の言い方をすると
日頃自分の意識を支配している
顕在意識の深層に働いていると思われる
潜在意識とも超意識ともよばれる
叡智の泉からの情報を
感じ、手にする力だと言えます。
ここでお気づきかもしれませんが
ここで注意したいのは
直観力についてであり
直感力ではないということです。
直感とは
自らの感覚のセンサーが敏感になること
感覚が研ぎ覚まされることで
受け取れる情報は多くなりますが
叡智の泉までには届かず
感じられる部分は
主に顕在意識と潜在意識の表層部分。
それに対して
直観力とは
叡智の泉、超意識に直接アクセスできる力で
いわゆるひらめきとも
言える力です。
また直観力は
これまでの経験を越えた部分に
働く力であり
特徴として時間軸に影響されないと言うこと。
すなわち
過去にこんな経験をしたということや
未来にこんな経験をしたいからという
過去や未来に対する思いに
関係なく働く力であると言うこと。
ですから
直観力が働いた瞬間に
今までになかった想像の種が
芽生え、開花し
新しい自分すなわち本来の自分の姿として
実を結ぶことになるのです。
この直観力は
実はいつでも僕たちには
働いているのです。
それに気がついていないだけ。
直観力を働かせるためにするべきことは
実は時間軸がないというのがポイント。
つまり現在、今しかないと言うこと。
今をしっかり生きていくこと
「中今」を生きることが
直観力を磨くことなんですね。
今を大事に生きて
直観力を研ぎ澄まし
魂を磨く生き方をすれば
豊かな人生を過ごせることでしょう
つながりを大事に生きる
人生が充実していると
いのちが喜び、輝きだします。
いのちが喜ぶ生き方をすると
人生が輝きだすのです。
いのちの喜ぶ暮らしのあり方として
欠かせない要素に
「人とのつながりを大事にする」
ということがあります。
つまりご縁を大事にするってことですね。
良きご縁を大切にし
ご縁ある方とともに
お互いのご縁を育むことができれば
お互い成長しあうだけでなく
お互いの人生が益々充実し
人生が充実することで
ご自身のいのちが、魂が喜び
益々輝きだすのです。
ご縁がある方と
お互いの人生に必要なつながりであれば
出会った後も理解し合い
つながりが続くことでしょう。
もしご縁がない人なら
意識しなくても、自然に縁遠くなるでしょう。
これも自然なことです。
去る者は追わずということでしょうか。
このご縁はどのような状態なのか
社会に目を向けてみましょう。
現代社会では
二極化、多極化が進んでいます。
出会った人が
全く自分と異なるエネルギーの方に
出会うことになるのです。
ですから
「来るものは拒まず」ではなく
「来るものは選んで」お付き合いする方が
お互いのエネルギーの浪費を
防ぐことになるのです。
どうやって選ぶか
あなた自身の心に
問いかけてみて下さい。
あなたのこころが
喜んでるかを感じてみて下さい。
目をつむって
脳裏に浮かんだなら
浮かんだ人が
あなたにとって大切な人なんです。
この目の前の人が
ご縁のあるかどうかを知る力のことを
直観力です。
直観力については
次回のブログで
空気のエネルギー
僕たちは
日々当たり前のように
呼吸をして、陽を浴びて、水を飲み
食べ物を食べ生きています。
それは、ただ単に
息をして、日光浴して
飲食してるというだけでなく
自然界からのあふれている
エネルギーを取り入れて生きているのです。
通常の診療やメタトロンをしているときに
機会あるごとに
呼吸の重要性について
お話することもあります。
呼吸の重要性を言うのは
世間でも
様々な呼吸法が紹介されていますし
現代だけでなく
ヨガ、禅などの仏教でも
昔から
呼吸法の重要性が現代まで
伝わってきています。
確かに
丹田を意識し
深く、ゆっくりした呼吸をすることで
疲労が改善し
よく眠れたり、こころ落ち着いたり
様々な効果を実感されたかたも
多くいらっしゃるのでは
ないでしょうか?
ナイチンゲールは
「わたしは、これまでの看護経験から
病気の人にとって大切なのは
新鮮な空気を吸うこと。
次に必要なのは光だ。と
新鮮な空気の大切さを
述べています。
空気を吸っているのは
人間だけではありません。
動物も植物にとっても必要です。
また人のからだの中に住みついて
僕たちのからだを支えてアくれている
腸内細菌も
空気の存在によって
生育が大きくかわることもわかっています。
世間では
色々な健康法があったり
高価なお金を払って
からだにいいものを摂るかたも
いらっしゃるかもしれません。
空気を吸うことは
全くお金はかかりませんし
全ての人に平等に
与えられているエネルギーです。
朝起きたとき
窓をあけて
外の新鮮な空気を吸うことで
からだが目覚め
素晴らしい一日になることを
約束してくれるでしょう。
空気は
自然からの無限の恵ですから。
次回は
ナイチンゲールも言っていた
陽の光について
お話しましょう。
この世を立ち去る時②
前回のブログの続き
最後の瞬間を穏やかに迎えた方の
実践のお話を紹介します。
そのご婦人はのやっていたことは
2つ
一つ目は
朝起きるといつも鏡の前でニコッとして
「今日も1日笑顔でがんばりましょう」と
自分と約束を交わしたそうです。
もう一つは
一日に何十回も、
念仏でも唱えるかのように
「わたしはしあわせ」と
言われてたそうです。
いつもにこやかに、
明るく、感謝の気持ちを
周りの方々に伝えながら
過ごされていたそうです。
まわりにしあわせの波動を
振りまきながら生きてきたので
こどもさんやお孫さんからも
大切にされながら日々過ごされたそうです。
でもやはり最後の瞬間は訪れます。
最後の時には
全国から親戚方一同が集まり
ベットの周りを取り囲んだそうです。
集まった方々の顔をひとりひとりみつめながら
「よく来たな。よく来たな。
あぁ、わたしはしあわせ~」と
仰ったそうです。
これが最後のことなとなり
旅立たれたそうです。
奇蹟が起こったのはその後でした。
行きを引き取った直後から
お顔は、どんどんピンク色に染まリ
若返ったようになり
笑みをうかべて
まるで観音様そっくりのお顔になられたそうです。
そして
その神々しいお姿を
見られた方は
手を合わせずにはいられなかったそうです。
この方は
このように生きればいい
と僕たちにも伝えているのでしょう。
どんな時でも
今生きていることを
喜び
今生きていられることに感謝して
過ごす。
どんな生き方をしてしようが
この気持ちをもつことを忘れず
今ここにいることを喜んで生きることが
大事だと言うことを
教えられました。
この世を立ち去る時
誰もにも
必ず訪れる死
死は
人間だけでなく
この世に生きている全ての生物に
生物だけではありません
全ての形ある全てのものにも
いつかは変われてしまう運命にあります。
死は
この世に存在するものの
運命(サガ)であります。
誰にも必ず訪れる
最後の瞬間に
どんな気持ちでその瞬間を迎え
幸せな気持ちで
その瞬間を迎えたいと
誰もが願うことでしょう。
そのために
宗教があるのかもしれませんが
最後の瞬間に
「あー楽しかった」
「ありがとう」
「愛している」
「しあわせだった」と
伝えて旅立つことができれば本望でしょう。
誰にも訪れる死の瞬間ですが
いつ訪れるかは誰にもわかりません。
それまで病気をしていても
元気に過ごしていても
その瞬間は
突然に訪れます。
ですから
その瞬間が
いつ訪れてもいいように
毎日
いつその瞬間が訪れてもいいように
やることがあるのです。
最後の瞬間を穏やかにむかえられた
あるご婦人の実践されたことを
紹介したいと思います。
具体的な方法は
長くなるので次回のブログで
紹介したいと思います
科学と宗教
アメリカ大陸の先住民の
インディアンは
風貌も白人とは違って
どこかアジアン風であり
その先祖が日本と共通なのかな?
と思ったり
それだけでなく
考え方にも惹かれる面もあるので
今日はカナダの
ネイティブインディアンの宗教についてです。
カナダのネイティブインディアンの
宗教の出発点的な考え方は
第一に
「自然界をありのままに見て
しかも
これはだめ、あれはだめ」と
言わないことなのだそうだ。
ありのまま、ありのままに受け入れ
受け入れると
「なぜ、自分だけがこんなに不幸なんだ」
なんて、悲観的な考えは浮かばず
苦しくても仕方がないと
今の状況を現実のまま受け入れるのです。
受け入れるとも
現実は苦しいことは変わらない。
そんな時
第2段階として次のように考えるようになるのです。
「この苦しみは
この宇宙のからくりの中で生きている中での
起こったことは苦しみは
幻なのだ・
本当の世界に戻ったときに
この苦しみから解放され、救済されるのだ。
だからこそ
この世での悪行を止め
苦しみに耐え忍び、救済を待つ」
と救済を信じて生きているのです。
第一段階の
ありのままに受け入れるという
この姿勢が
科学発達の出発点であり
その科学という先に
宗教があるのだと言うことを
ネイティブインディアンも伝えているのです。
科学の先にあるのが
真実のこころ、魂のことが
わかるのではないでしょうか?
そこは目で見えない世界
だから科学と区別して
人は宗教とよぶようになったのだと思います。
両親からの贈り物
僕たちは
ひとりで生まれてきたわけではなく
両親から3つのものをいただいて
この世に生まれてきたんだと
思います。
一つは
この世で生きていくための
「肉体」。
そしてあと二つは
「良いこころ」と「魂」だと
思います。
肉体は
生まれたときに
両親からいただいたのは
わかるのですが
「良いこころ」はいつ?
僕は
死を迎えたとき
つまりあの世に旅立つ瞬間に
旅立つご先祖様から
生きているときに感じられた
「良いこころ」を
これから生きている人に
エネルギーとして
手渡されているのだと思います。
親しい人が亡くなると
思い出されるのは
美しい思い出ばかり。
これは
「良いこころ」を受け取った
証拠なんだと思う。
そして
生きている間
お金ではなく、
天に徳という貯金をして生きていく
ということが大事なんだと思う。
いわゆる
徳積みは自分のためでなくて
こどもだけでなく孫のためなんだ
ということもきいたことがあります。
そうなんですよね
今感じた「良いこと」
それを良いと感じることで学んだ自分の魂
そのエネルギーは
両親やご先祖さまからいただき
もっといい経験をして
もっと大きなエネルギーとして
こどもや孫そして子孫に続く
生き方をしないといけないと
いうことですね。
この世に生まれてきたわけは
魂を磨き、徳積みをして
エネルギーを高めることは
自分だけならず
代々引き継いでもらえると思うと
今真剣に大事に真の道を
歩いて行かないといけない
大きな責任があるのですね。
フロイトとアドラー
毎日健康上悩みを解決しようと
こどもからおとなまで
様々なかたが来院されます。
そして
お話を聞いてると
その人の考え方が2種類あることに
感じます。
それは
前向きに考えるかどうか
物事をポジティブに捉えれるかどうかが
大きいなと思います。
ネガティブに考えてしまう人も
出来るだけ前向き、ポジティブに考えた方が
いいと思って
お話しするのですが
中々一筋縄ではいけません。
そんな時
心理学者のユング、フロイトの考え方
それと
アドラーの心理学のちがいの話を聞きました。
そこで、今日は
フロイトとアドラーの心理学のちがいを
お話しようと思います。
フロイトは「原因論」と言われ
過去にこういう原因と考えられることが
合ったので
今があるのだ。
つまり
今こうなったことの原因を探し
その原因をみつけて
原因を改善しようとします。
それに対して
アドラーは「目的論」と言われ
その人の今の状態は
その人が選んだことでしょう
ということなのです。
全ての原因を
自分以外の外に求めるのではなくて
自分自身に求めているという
ことです。
日頃診察しても
この2つのパターンを
感じることがよくあります。
病気などの何かのからだの不調を感じたときに
普通は
なんでこうなったんだろうと考え
食事、運動が悪い
寝れなかったから
仕事のストレス
人間関係の不調が
あるから起こったんじゃないかと
一生懸命
その原因だけを探そうとします、
アドラー的に考えると
今この状態にいようとするのは
自分が選んだこと。
何のために
自分はこの状態を選ぼうとしたのだろう
この選んだことで
どんなことを考え、
その考えたことで
自分の気持ちが変わってきてないだろうか?
今、こういう風に気づくために
この不調という時間が
必要になったのだろうか?
などなど
様々の内なる原因に気づき、
変化が始まるのです。
原因がわかったとしても
それを自分で変えようとしないと
決して先には進めませんよね。
どんな状態でも
原因は自分自身の中に答えがある
そんな気がします。
そう思えた瞬間に
人は変われるのかもしれませんね。