年別アーカイブ: 2022

成分に惑わされるな

健康志向の高まりにつれて
からだにいい食品を摂ろう
その食品を食べるのは
その食品に含まれる○○が
△△にいいから理由で
摂取を勧められることもあるでしょう。

でも
その選択、ちょっと待って。

食べるものを考える時
肉や野菜という「食品」と
リコピンや糖分といった「成分」の
2つがあります。
以前は、食品の成分を分析して
この成分がからだにいいことを証明する時代がありましたが
現在では、考え方がすすみ
食品そのものが重要であって
成分はあまり重要でないという報告も
目につくようになりました。

例えば、くだものを例にすると
りんごやミカンは食品だけど
くだものに含まれている
ビタミンCや果糖が成分だ。

くだものに含まれる果糖は
確かに血糖が上げます。
しかし
くだものを丸ごと食べたときは
くだものの果糖を抽出して摂ったときほど
血糖値は上がらないことがわかっています。

また以前βカロチンはからだにいいと言われてましたが
βカロチンは
肺がんのリスク、心筋梗塞のリスクを高めるという
報告もでています。

緑黄色野菜の摂取は病気のリスクを下げるものの
そこに抽出されるβカロチンなどの成分は
むしろ病気のリスクをあげてしまうことも
知っておかないといけない。

昔から
からだにいいものは、
そのもの丸ごと食べられるものだと言われています。

ですから
からだにいいと昔から言われる
野菜、魚など食品を丸ごと美味しく摂取すると
それがからだにいい食べ方なのですよ。

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夢見る小学校

テストがない
宿題がない
通知表もない
好きなことだけしたらいい
学校があったら
どんなにいいだろう?と
思ったことないですか?

実はそんな夢のような学校があるのです。
映画「夢見る小学校」は
そんな実際の学校の様子
生徒、先生の思いを教えてくれた
映画でした。

そこには
何をするかもじぶんで決めて
追求し作りあげていきます。
ひとつのことに疑問を持ち
その課題を解決すると
それで終わりでなく
自分で見つけた課題だから
次々更なる課題が見つかって
どんどん発達成長していくんです。
まるで脳細胞がシナプスを介して
増えていくんです。

この学校には
規則はありません。
あるのは
「礼儀正しく」
「自分を大切に」
「出会いを大切に」しかないそうです。
なるほど、それで充分なのかも。

またここの学校は
ADHDのように、学習障害と診断され
入学したこどももいます。
そのこどもの入学する条件はただひとつ。
薬を飲まないことだったらしい。
薬を飲まなかったことで、
こどもは何か困ったか?といえば
そんなことはなく
のびのび学習して卒業したそうです。

この学校では
みんなで集まったときも整列しません。
整列すると
見にくいからだそうです。

人と比較する数字でつける
通知表も存在しません。

この映画をみて
我々おとなは
こどもはのびのび自由に育てたいなんて
口では言っているけど
おとなの価値観で
こどもの自由を奪っていないだろうか?

自由に過ごすって
口でいうのは簡単だけど
実は自由に縛られてるのかも。

この学校を創立した
堀真一郎先生が
「自由にしていいよ。
だけど”責任”は自分で撮るんだよ」
こう言われて自由にワクワク行動できるでしょうか
「自由にしていいんだよ。
責任は、すべておとながとってあげるから」
といってます。

責任をとれる大きな人間だけが
人を育てることができる。
これは、先生にだけむけた言葉ではなく
僕たち医師にも言えること
だと思う。

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生きてきたように死を迎える

人はピンピンコロリと苦しまずに
死んでいきたいと多くの人が
思ってるかもしれませんが
実際
死のうと思っても
人は死ねるものではありません。

人の生と関わる仕事をしていると
避けて通れないのが死の問題。
人はある意味
死にむかって生きてるし
生きてきたように死んでいくのでは
ないかと思うのです。

ですから
今をどういきるかが大事になって来るのです。

人生は
「集める人生」と「散らす人生」に
分かれると言います。

集める人生とは
お金、物、アイデア、知識などを
集めることが中心になる人生。
散らす人生とは
お金、知識、経験、能力、時間などを
周りの人に散らす人生です。

散らす人生を過ごされた方は
平安な最後を迎えられるような気がします。

散らすものの中で
最も大切な物は時間ではないでしょうか?
人生は時間の集積ですから
時間を自分のために使うか
人のために使うかによって
その人の最後の瞬間がきまるような気がします。

日野原重明先生は
「いのちとは、今あなたがもっている時間のことです。
いのちをもっているということは
使える時間が与えられているということです。
自分が使うことができる時間こそが
いのちであり
それを何にどう使うかということが
生きていくということです
時間の使い方は
そのままいのちの使い方です」

あなたのいのち、
与えられた時間をどのように使うかが
いや使ったが
どのように死を迎えるかということに
なるのだと思います。

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魂の痛み~スピリチュアル・ペイン~

人間の感じる痛みは
4つにあると言われています。

1つは肉体に感じる身体的痛み。
2つめは、不安、おそれ、怒り、鬱状態などの
精神的痛み
3つめは、人間関係、仕事関係などで経験する
社会的痛み
そしてあとひとつは
スピリチュアルペインともいわれ
人間がもつ霊性、魂があるから
感じる痛みがあると言われています。

このスピリチュアル・ペインは
魂の痛みとも考えられます。
具体的には以下の質問の答えを
見いだせずに苦悩する苦しみでしょうか。
例えば
①生きる意味への問い
こんなになって生きていてもしかたない
自分の人生って何だったのだろう
こんな病気になって何を支えにいきていけばいいのか
②苦難に対する問い
こんなに自分だけ苦しみのはなぜ?
これらの問いに対する答えが見つからない苦しみ。
他に答えの見つからない苦しみとして
③孤独感
④罪責感
⑤自分以外の人に迷惑をかける
⑥死後の世界

こんな時感じるのが
魂の痛みです、

この魂の痛みには
自分ひとりでは答えが見つからない
自分以外の人に
助けを求めても答えが見つからない
そして
解決するために死さえ
選んでしまうこともある
とても苦しい痛みだと思います。

この苦しみから逃れるために
こころのよりどころになる思いを
もっていればいいのだけど
人々はずっとそれをもちたいと思っている
それが神であり、宗教なのだと思う。

あなたの魂の痛みを救ってくれるのは
誰でしょう?
あなたには神様はいますか?

僕は神様ではないけど
あなたの魂の痛みを和らげることが出来るように
精進したいと思っています。

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病気になった時の心構え、あなたは?

人は病気になったとき
病気だと診断されたとき
その診断を聞いたとき
その時の反応は
千差万別だとは思いますが
大きく3つに分けられると思います。

「あきらめる方」
「うけ入れる方」
「育むかた」
がいらっしゃると思います。
この3つに違いがあります。

「あきらめる」というと
マイナスイメージがあります。
しかし、あきらめるの元々の意味は
原因をつまびらかにする。
真相をあきらかにする。から
きているそうです。
あきらかにする→あきらめると変化したのです。

「受け入れる」は
拒むことなく許し、迎え入れることです。
僕も脳出血を経験した後
からだの不自由さを
最初はあきらめてましたが
今は
受け入れて日々過ごしています
あきらめるに比べて
こころにプラスな面ががでてきた言葉です。。

そして最後は「育む」ですが
更にプラスの気持ちが増えてきます。
育むは、もともと
親鳥が、ひなを羽で覆い包む
「羽包む(はくくむ)」が語源で
愛情を持って育てるという感じです。

つまり
あきらめるがマイナス
受け入れるは±ゼロ
育むはプラスになった状態です。

病気になっても
人は生き続けなければならない。
つまり
病気になったときに
受け入れ、その状態を育んで生きていくことが
大事なんですよ。

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病と心と食の関係

昔から「病は気から」といっていた。
怪訝前2世紀頃のローマの医学者ガレノスは
「陰気なことを考える人は
癌になりやすい」という言葉を
残している。

医学の発達する前から
人々は直感的に
こころと病気に因果関係があることを
直感的に見抜いてたのでしょう。
最近では
ストレスと病気の関係は
科学的にも実証されるようになり
精神的面でも関与されないだろうと思える
原因のはっきりした感染症であっても
昨今のコロナ感染を診ていても
コロナウイルスの報道で
不安をあおられて、その影響がないともいえないと
思います。

またこころのありようが
からだに影響するし
最近の研究では食事が
こころに影響することもわかってきました。

例えば
肉食を続けると攻撃的になるといわれています。
それは肉が酸化食品であるからだけでなく
その動物が殺されるときに感じた恐怖感が
悪い波動となって残っていて
その波動が人間の精神に悪影響を及ぼすから
こも言われています。

逆に
果物を多く食べる熱帯の人々は
おおらかで過ごしてます。
また
宗教史上聖人といわれる方の大半は
肉を全く食べないかたも多く
仏教でも殺生戒をいったりします。
それは、霊性や精神性を清らかに保つためであり
肉食をすると
精神的に悪影響がおよび
宗教者に不可欠なスピリチュアルな能力が
衰えることを知っていたからでしょう。

犯罪者が集められた刑務所でも
玄米食中心の
俗にいう「くさい飯」をとることで
出所するときには
精神的に良い影響をあたえるのかも
しれません。

このように
なにを食べるかが
こころに影響し
そのこころの状態が病を引き起こすという
病とこころと食とは
三角の関係にあることを知っておきましょう。

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アトピー性皮膚炎からのメッセージ

アトピー性皮膚炎は
誰もが知っているといっていいほど
身近な病気です。

皮膚がジュクジュクしたり
カサカサしたりかゆみも強く
寛解、増悪をくり返す病気で
原因はアレルギーだと言われるので
これから食事をはじめる
赤ちゃんのお母さんは
なにを食べさせるかとても神経質になる。

先日も
卵を食べさせると
口の周りが赤くなった
アレルギーかも?と思い
その他にも口の周りがかぶれる度に
アレルギーかも?
心配で食べさせられない
不安で食べられるものがなくなったと
検査を希望されて受診されました。

アトピーと気づくきっかけは
アレルギーかもしれませんが
湿疹の原因は
体内にたまった毒素を
皮膚を通して排泄しようとする現象だと
説明できます。

湿疹がひどくなると
ステロイド剤を塗布すると
あっという間に治ります。
治ったと思って安心してると
また悪化してステロイド剤を塗り
ステロイド剤を習慣的に塗り
副作用が出現します。
ステロイド剤はいい薬ですが
塗りすぎに注意が必要になります。

塗りすぎになるのは
ステロイド剤塗布で治っているわけではなく
体外に出そうとしている毒素を
無理矢理体内に押さえ込み
皮膚にフタをしてしまう薬といえます。
おさえこんでいるから
一時的に症状は収まるけど
無理矢理押さえつけることで
薬の効果が切れると
症状がより悪化してしまうこともあるのです。

アトピー性皮膚炎の根本原因は
アレルギーだけど
アレルギー反応を起こすのは
からだの最終手段なんです。

アトピー性皮膚炎のこ時のメッセージは
「これ以上毒素をいれないでくれ」という
ことなんです。
毒素侵入に気づくために
アレルギー反応を起こしているのです。

だから症状を力尽くで押さえ込むのではなく
あるがままに毒素をだしきったほうがいい。
そしてその毒素を出し切ることで
湿疹はステロイドを使わずに治るはずです。
そして
からだにいい生活に切り替えていくのです。

アトピー性皮膚炎の時は
「毒素を外に出させてくれ、
そして毒素は中にいれないでくれ」
という内なる声を受け止めてください。

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ゴヤの名画と優しい泥棒

上記の映画を観てきた
これは1961年に
イギリスのロンドンナショナルギャラリーから
ゴヤの名画「ウェリントン講釈」が盗まれ
政府に身代金が要求された。
この大胆な手口に
国際的な窃盗団と思ったが
その窃盗品を盗んだと出頭したのは
60才のひとりの
正義感あふれる老人だった。

老人は
孤独に苦しむ老人の生活に潤いを
絶えさせないために
老人に対する
国営放送の受信料を肩代わりにしようとしての
犯行だった。

陪審員裁判では
返却したこと
その誠実な動機が認められ
叙情酌量の余地ありということで
無罪を勝ち取った。
しかし
真犯人は別いた・・・という
実際にあった事件を題材にした映画。

サスペンスとユーモアにあふれ
あっというもの時間だった。
最近、大金が誤って振り込まれた事件があり
そのお金をすぐ返金していれば、どうなってたのか?
正義感のあふれる老人の大きな愛
でも小さな愛を大事にした
こころやさしさがベースにあることが描かれた
こころやさしさも伝わる
心温まる映画だった。

人の愛の行動の背景には
自分が犠牲になる気持ちを
もたないといけないと考えさせられた
秀作でした。

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医療に必要なのは真実の愛

医療は
患者さんの痛みや苦しみをとってあげるのが
使命である。
そのために医薬品を武器として
病に立ち向かっている。

しかし治療で使われる医薬品は
全て化学薬品で
その標的は症状であり
症状のみは改善するが
有る部分には毒物として
働いてしまうこともあり
次から次に薬が増えてしまうこともあります。

医療を行うためには
絶対「愛」が必要です。
愛がなければ医療は成立しません。

しかし
世の中には愛があふれています。
いえ、愛という言葉があふれています。
男も女も
老いも若きも簡単に愛を語り
現代人はあまりにも簡単に愛を語りすぎて
真実の愛を忘れかけている気がします。

現代に生きる医者だって同じ。
愛というものを曲解していないでしょうか?
エゴを満たしてくれるのが愛
同情や哀れみをかけてくれる物に対して感じるのが
愛だと誤解していませんか?

確かに相手に寄り添うのは大事だけど
寄り添うことだけが
真実の愛だとは僕は思わない。

現代の医療現場でも
真実の愛と偽りの愛をりようしてるのでは?
と思うことがある。
患者さんが痛みを訴えれば鎮痛剤を与え
熱が出たからといって解熱剤を与え
それを与えることで
熱や痛みをくり返したとしても
熱や痛みを取りさえすれば
逆に怖ろしい副作用が起こるきっかけになったとしても
患者さんが望んでたことなので
それでいいのだと
自分に言い聞かせながら
診療をおこなってはいけないのだと思う。

患者さんに痛みをとるだけでなく
なぜ今この痛みが起こったのか?
なぜ熱が出たかの理由や意味を考えて
病気の原因を生活様式から、すなわち生き方から考え
今後二度とこの苦しみが起きないようにするのが
真実の愛に生きる医師の道ではないだろうかと
最近つくづく思うのです。

僕は真実の愛に生きる
医師でありたいと思います。

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死に対する私考

生まれたものは
必ず死の瞬間を迎える。
誰もが経験することだけど
その経験を後から
語ることはできないので
死について語るのは難しく
特に現代医学では
死を迎えることは
ある意味敗北をも意味するので
真正面からとらえず
タブー視している感じがする。

そもそも
僕は死は終わりではないと
考えている。

人々が死を怖れるのは
今あるすべてのものを失ってしまう
死んだ後どうなるかわからない
死んだら全てが終わりと考えるからだろう。

死んだ後
生きてきた地球とは異なる
新しい世界に行くのだと思えば
死に対する恐怖は
少しは和らぐのではないか?

僕は
死んだ後の世界のことは
もちろんわからないが
死で終わるのではなく
死によって新しい心身に生まれ変わり
新しい世界があるのではないかと
最近の臨死体験の人の語るのを聞く機会が
日に日に二増えるに従って
思うようになってきた。

その考えを知るにつけて
死は決して否定的なものではないと
考えるようになってきた。

そうであるならば
我々は今どうして生きているのか?
その意味を考えることが大事なんだと思う。

死を怖れずに
今を生ききること。
この世を生ききったことで
わかる世界が
きっと死後の世界なんだと思うのです。

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