お釈迦様は
生・老・病・死を四苦として
この世の苦しみを表現しています。
この中で
病いの苦しみも味わったこともあります。
生きていくことも苦しいこともあることは
理解できます。
死についても、
経験はもちろん生きている間に
できるわけではないけれど
わからないだけに死を考えると
単なる恐怖というよりは
誰もが経験するのに
わからないことに対して苦しみとなることも
理解できます。
そんな中で
「老」に対する苦しみ・・・って
どんな事なんだろう
老いることも死と同様に
生きている限り避けられないことだけど
長寿を逝ききった
多くの先輩方がいらっしゃるので
のりきる方法がどこかに
あるのだろうと思っています。
人生の生き方として
注目している人のひとりに
昨年残念ながらお亡くなりになられた
瀬戸内寂聴さんがいらっしゃいます。
波瀾万丈の人生の中
破天荒にも見える生き方
僧侶であっても
どこか人間くささのある生き方、、説法で
多くの人に生きる希望を与えられた
瀬戸内寂聴さん。
でも、人には見せない本質のところを
知りたくて
注目していた方です。
そんな寂聴を密着取材され
17年間カメラに記録された
中村哲さんの映画
「99年生きてきて思うこと」を観ました。
多くは豪快に大好物の肉を
美味しそうに食べ
説法ではみんなと同じ目線で
語りかける姿は
誰もが知っている、
だから誰にも愛される寂聴さんの姿
でした。
でも
密着することが許された監督の前で
流された涙
その姿が心に響きます。
いつまでも元気そうで
明るく
老いも病も楽しく乗り越えられ
楽しく生きられ
死も怖くないような
生・老・病・死の苦はないように
振る舞われル寂聴さんですが
涙する場面がありました。
それは
うまく話ができなかったのでしょう。
寂聴さんが話せなかったと
ボケてしまったと後悔するように大声で
嘆き泣かれるのです。
そんなことはない・・と周りの人が言っても
その言葉にも耳に入らないかのように
嘆き泣かれるのです。
そして
なくなる年のお正月
もう私はもう長くはないと
病気も克服されているのに関わらず
嘆かれるのです。
そして
臨終の時の取材を許可されるのです。
お正月にそんな縁起でもない話に
そして生命力あふれて活躍される
寂聴さんに対しては
周りに肯定する人がいるはずもありません。
でも
その時思ったのです。
寂聴さんは老いることの苦しみと
闘っているのだと。
そう感じたのです。
老いるはしかたが無いこと
そんなことは百も承知していても
老いたくないと
老いと闘われていたのです。
そして
中村哲さんに遺した最後の言葉として
遺されたのは
必ず帰ると、先生とけんか中です。
その時は
退院して家に帰りたかったから
でた言葉と思いました。
時間をおいてこの言葉を思い返すと
帰る場所は家ではなく
この世で生きる続けたいという
寂聴さんの心からの叫びだったのでは
思いました。
仏と寄り添って生きていても
四苦からは逃れられない
さあ、あなたはこれからどう生きる?と
仏様から言われて気がします。
☆ 自身の経験をもとに、今感じていることをまとめた
拙著「どう生きてどう死ぬか 脳出血を経験した小児科医が観た生きる道」を
上梓させていただきました。
この本で記した僕の経験が、思いが
医師としてだけでなく、病いを経験したひとりの人間として
ひとりでも多くの方のお役に立てることを願うばかりです。
Amazonで購入できます。https://amzn.asia/d/3kIDJaR