年別アーカイブ: 2024
いいことを増やす方法
嫌なことを1つ考えたら
楽しいことを2つ考える
心配事が1つあったら
うまくいったとこのことを2つ思い出す
嫌いなところを1つ見つけたら
好きなところを2つ見つける
そんな積み重ねで
いいことがいっぱい
増えていくと思う
☆ 昨日はFMわっしょいで
“五月病と地震の時に備えて”というテーマで
お話しさせていただきました。
新しいスタジオでの初めての放送だったので
ちょっと探検家気分でキョロキョロ、楽しく放送できました。
今日は快晴の休日。どのようにお過ごしですか?
我が家は、先輩のホームパーティーで、
ピアノとバイオリンを演奏してきます。
みなさんにとっても、楽しい一日になりますように。
リップン・チェンシン
台湾語で目に見えない大切なもの
を表す言葉で
漢字で書くと「日本精神」と書くそうです。
あなたにはリップン・チェンシンがあるね
と言われると、最高の褒め言葉だそうです。
勤勉、誠実、親切、約束を守る、責任感がある
自分の仕事に誇りを持っている
さらに自分だけでなくみんなのことを考えられる
今のことだけでなく次の世代のことまで考えられる・・・
そんな人のことを
台湾語で「リップン・チェンシンmpある人」と言うそうです。
台湾の人は
日本人が戦時下台湾が統治した時に
感じた日本人の侍魂を感じて
今もその思いを忘れないようにしてるのでしょう。
だから
東日本大震災が起きた時にも
すぐに絶大な支援に動いてくれたり
いまでも親日国なのでしょう。
時間が流れ
台湾の人が思っている
大和魂が薄れてきている気がしますが
もう一度魂に刻まれている
日本人としての大和魂を
思いだして生きていきたいものです。
恩について
恩という字は
原因の「因」に「心」と書きます。
心は心臓のことですから
「いのち」を意味します。
つまりいのちの源に対する
深い思いを「恩」と呼ぶのです。
恩には
父母の恩、太陽の恩、自然の恩、師の恩など
様々あります。
我々日本人は
この恩を大事に引き継いできた
民族です。
また恩と似た言葉に
感謝があります。
恩と感謝のちがいは
感謝は気持ちで終わることが多いのですが
恩を意識すると
恩に報いるという言葉があるように
感謝を行動する気持ちが芽生えてきます。
ですから
恩を意識して生きることが成功に繋がるのです。
夢を追いかける落とし穴
夢を追いかけることは
人生に希望を与えてくれます。
でも、夢を追いかけすぎると
実は落とし穴があることを知って欲しいのです。
ひとつ夢が叶うと
やっと夢に到達して
息切れしているのに
「ここで満足したら
全てがストップしてしまう。
人間の成長はストップする」と
思ってしまうのです。
だから
「次は何?次は何?」という風に
自分にむち打って
新しい目標を設定して
生きていくのです。
こういう夢を追いかける生き方は
アメリカンドリームに象徴されるような
アメリカ人的な生き方です。
このチャレンジしている間は
とてもパワフルだし、夢を叶えていくでしょう。
でも、逆に言えば
夢しか叶わないのです。
夢が叶えばそれでいいかもしれませんが
夢はあなたの頭で描いたもの。
実は、あなたには
もっともっと、大きなことができる力を
可能性をもっともっているのです。
夢を追いかけかけるよりも
今を大切に生きることが
あなたの本当の夢を、人生を切り開く
力になるはずです。
オッペンハイマー
今年のアカデミー賞を授賞した映画
「オッペンハイマー」を観てきました。
オッペンハイマーといえば
原爆を開発した原爆の父といわれた人
というぐらいのことしか知りませんでした。
オッペンハイマーは
純粋な理論物理学者であり
その自分の生み出した考えを
人類のしあわせになると信じて
日夜研究に打ち込むのは
科学者の端くれとして生きる自分にも
共感できる。
原爆という超破壊力の爆弾を作ることで
この爆弾を使うことで
世界を破滅させることでも可能な力をもつ。
だから、この爆弾を使わないようにするため
人々は平和に暮らすようになるだろうと信じて
開発に努力し、成功するのだけど・・・
世間の考え方や
時の権力者の考え方は大きく異なり
この爆弾をソ連がもったら更なる恐怖になる
もっと更に強い爆弾を作るように
オッペンハイマーに迫るのです。
その考えにどうしても賛同できず抵抗したので
共産主義だと疑われ
時の大統領に
「泣き虫には二度と会わない」などと罵倒されても
自分の信念は曲げなかった一生なんです。
もちたくない感情のひとつは
恐怖という疑心暗鬼なんだという思いを
確信しました。
医学も医師も、
恐怖を安心をかえられるように
する力を持たないといけないのだと
この映画を観た感想です。
少し長い映画で、難解な面もあるけど
観る人に感じさせるのが多いこと
いい映画でした。
目標達成よりも天命追求型で生きる
アメリカ人は
日本人よりも目標をしっかり掲げて
生きていくことがしあわせに繋がると
日々の目標をクリアーすることに
力を注いで
生きていく、それが美徳と考えています。
でも、目標を達成すれば
幸せかというと・・・
目標達成すれば、その瞬間は幸せだと感じても
次の瞬間に
また次の目標に動き出さないと
しあわせが逃げてしまう気がするのです。
だから
目標を追いかけるだけでは
きっと幸せになれないとおもうのです。
目標に達成するまで必死でもがくのではなく
今、すべきことに全力投球することで
その積み重ねることで
天命によって運ばれてくる。
そして、天命にしたがって生きていると
本人の人生が充実していると
感じてしあわせに生きていけるのではないでしょうか。
死は忌むべきものなのか?
昔から
死を怖れ、死は忌むべきものであると
考えられてきた。
だから
最近ではその風習はなくなってきたけど
葬儀のお返しには
清めの塩をいただいたり
神社にも
死者に会った時は喪が明けるまでは
お参りしてはいけない。
それは
神様は死を嫌っているからだと
教えられてきた。
お寺の仏様は
死者を導くので問題はない。と
教えられてきたけど
その考えに疑問が生まれてきた。
本当に神様がそう決めたのか?
昨日まで生きていた人に
翌日死んだからって
同じ人なのに忌み嫌うって
おかしくないだろうか?
神様だって
死んだ後の人で崇められて神様になった方も
おられるのに?
神様がそういったのではなく
古事記の伊弉冉伊弉諾の黄泉の国の話から
きているような・・・・
きっと神様が直接言ったのではなく
人が決めたことなのかと
思うようになってきた。
死者を忌み嫌うのではなく
もっと、もっと敬わなければならないのでしょう。
マザーテレサが反戦集会に参加しなかった理由
ノーベル平和賞を授賞したマザーテレサは
反戦集会には一度もでたことがないそうです。
彼女が出席したのは
平和集会だけだというのです。
反戦集会は
そこに集まる人たちが
「戦争反対」とみなで声を上げるのは
戦争のあることが前提になっています。
平和集会は
平和な世の中を望む人の集まりですから
言っていることは似ていても
心にあることは
どこか違っている気がします。
マザーテレサが反戦集会に参加しなかったのは
戦争反対を叫べば、叫ぶほど
戦争を推進する人たちに
力を与えてしまうと思ったかからではないでしょうか?
病気に対しても
同じいことが言えるのではないでしょうか?
「病気に打ち克とう、がんにと戦おう」と
戦闘モードに入ってしまうのかもしれないと思うのです。
その時
このいのちをどのように使うかを
どうしたらみなと平和に暮らせるかに
意識を持っていくと
奇跡が起こる気がします。
神社に行く理由
毎朝
学校が休みの娘と一緒に
地の神様が祀られてる老松神社に
お参りに行っています。
ここの神社は
とても“気”がいいのでしょう
行くと一日元気に過ごせるので
我が家にとってのパワースポットのひとつです。
全国にはたくさんの神社があります
パワースポットとよばれる神社も
数多くあります。
そして
最近はパワースポット巡りがブームで
有名神社には多くの人が集まっている
ようです。
神社は神様が降りて来られるような
エネルギーの高い場所だと
聞きしました。
神社は神様にとってもエネルギーの高い場所
だから
僕たち人間にとってもエネルギーが高い場所
だからパワースポットになるんでしょう
神社にお参りするということは
自分のエネルギーを高めること。
自分のエネルギーを神様のエネルギーに近づけることで
神様のエネルギー的に一体になること
なんだと思います。
そして
神社で手を合わせるのは
単に祈るだけではなく
「神様と自分は一体になります。受け入れます」
という想いやを形にしていると想うのです
神社で手を合わせた時
よくても、悪くても
過去の自分のおかげで今の自分があるんだ
と思った瞬間がありました。
どんな出来事が起こっても
たとえ病気や仕事、人生の失敗など
自分にとってマイナスなことが起こっていたとしても
そのおかげがあったから
これまでの自分の過ちに気づくことができ
人の苦しみや傷みを理解できるようになる のです。
「おかげさまで今がある」と思えたとき
きっと神様と自分は一体であると
感じられるような気がするのです。
毎朝
娘と老松神社でお参りをして
毎日元気に過ごせるのは
病気をしたおかげ
コロナウイルスの影響で学校が休校になっているおかげ
「本当におかげさまで今がある」
からですよね。神様
ただ花のように生きる
咲いてる花を見ると
こころが安らぎます。
花が部屋に一輪でもあると
癒やされるので
花を部屋に飾る人は多いのです。
でも、花は
みんなにその咲いてる姿を見てもらいたくて
誰かに咲いてる姿を見せたくて
咲いてるのでしょうか?
道ばたに小さい花が咲いているのを
みつけると
その健気に咲いている姿に
感動したり、
勇気をもらったりすることもあるでしょう。
でも、花からしたら
僕たち人間に見せようと咲いているわけではなく
誰かを喜ばせるために
咲いてるわけじゃないはず。
ただただ、そこにいたから
そこで生き、花をつけ、実をつけ
次の世代にいのちを繋ごうと思って
咲いている?
いえいえ、そんなこともないのでは
そんな目的を考えてではなく
ただただ、その場に生きていたので
花を咲かせたのでしょう。
ただただ生きていたから。
誰かを癒やそうなんて思ってないでしょう。
それに比べて、僕は
今、こうして文章を書いているのも
人のためにになる文章を書いていたい
あわよくばその文章を一人でも多くの人のために・・・
なんて下心でいっぱい。
花が美しいのは
無心に、無欲に生きていることの
結果かもしれない。
そんな花のように僕も
生きられたらしあわせなのかもしれない。