年別アーカイブ: 2024
ひとつひとつの動作にゆっくり気持ちをのせる
今を生きよう
今、この瞬間を一生懸命生きよう
といわれても
実際にどう生きればいいのか
具体的にはわからない人も多いことでしょう。
僕が考える
今を生きるということは
今目の前にあることを
大事に一生懸命に行うということ。
そう言えば、茶道をやっている人に
茶道の修行は
何も考えず、理屈なども考えず
ただひっつひとの動作をくり返し
何も考えずにできるようになるまで
行うのだと。
聞いたことがある。
つまり
ひとつひとつの動作に
気持ちを乗せることをしてみると
目の前のことに
集中しやすくなることに気づける
ということなのでしょう。
これと中今を生きることとは同じなのだ。
ひとつひとつの動作を
ゆっくり丁寧に
からだを動かせることに感謝しながら行い
そして生きていると・・・
ちゃんと、思い通りにからだが動けたことに
有り難さの気持ちも生まれてくるでしょう。
“あなたの道”
僕は、実は詩を書くのが好きです。
詩は、その時の自分の言葉。
素直に自分の心を映し出してくれます。
時々、僕の“心の調べ”を聞いてください。
娘が12回目の誕生日に作った詩です。
“あなたの道”
あなたには、あなたに
あたえられた道がある
天からあたえられた
尊い道がそこにある
それが
どんな道か誰にもわからない
その道は
あなた以外誰にも歩むことのできない
そして
二度と同じ道を歩くことのできない
かけがいのない
尊い道
広い時もある、狭い時もある
上りもあれば、下りもある
どんな道であっても
それは、あなたが歩むべき道
勇気をだして
歩き続けてごらん
パパもママもいつも
歩いているあなたの後ろで
見守ってるよ
さあ、歩いてごらん
あなたの道を
明るい光に向って
明るい未来が待っているから
変化を受け入れる
病気をしたときや
年を重ねるごとに
これまでと違うことを感じ
元の状態に戻ろうと
病院を受診したり、若返るための
情報を探し、実行することでしょう。
でも、どんなに頑張っても
全く元の状態に戻ることって
難しいこと。
ですから、変化が起きたときは
その変化を受け入れて欲しいと思います。
人間の体が
病や老いを経験した時には
元のからだに求めるのではなく
「新しいからだの女状態へ移行する
プロセスである」と
視点を過去ではなく、未来へと向けることが
重要だと思うのです。
自分の価値
あなたは
どんな人ですか?
あなたって
どんな人か説明できますか?
あなたのの顔ってわかりますか?
意外と
自分のことってわからなくないですか?
自分の顔を知りたければ
鏡をみればわかるはずだけど
”あの人と比べたら、かわいくない”
”あの人より、目が小さい、鼻が低い”
”あの人と・・・”なんて
あなた以外の人と比べてないですか?
逆に
人から言われて
肌がつるつるしてる
髪がきれい
くちびるがふっくらしてる
・・・・など
初めて自分の魅力に
気がつくことがあるかもしれない
自分のことって
意外と知らないものだと思いませんか?。
自分の外見だってわかりにくいのに
自分の良さや能力なんて
もっとわからないもの。
勉強や仕事をする時
誰かと比べてしまったら
集中できないし、
あの人が気になって
心が上の空になってしまいます。
そして
誰かと比べて
”あの人より劣ってる”なんて
不安に思ってしまうこともあるかも。
人と比べるってことは
ないものねだりをしてる
実はとっても我がままな行為なんだとおもう。
外見にしても
内面にしても
みんな持ってるものが違う
ってことに気づいてほしい。
あの人が持っているものを
あなたは持っていないかもしれない
けど
あなたが持っているものは
あのひとは持っていないはず。
自分が持っていないものを
欲しくなるのは人間の性。
あの人と同じものを持ちたい
と思うのも人間の性。
あの人と同じものを持ってしまうと
また
別のものを欲しくなってしまうのも
人間の性。
だから
人の持っているもので
満足することはできないんだと
思います。
”人がもっているものは
永遠に手に入れることはできない”と
思った瞬間に
自分の中に大切なものがあることに
気がつきます。
そして
自分の中にある
大切な宝物を
探してみたくなるでしょう。
自分の中にある宝物なら
きっと
いつまでも大切にしようと
思うでしょう。
他の人が
持っていようが
持っていようが
関係ない。
あなただけがもっていたい
あなただけの
大切な宝物
そんな宝物は
みんな持っている。
もっと自分に関心を持って
自分の中にある
宝物を見つけてみましょう。
自分の中にある
自分らしさを見つけましょう。
他人からみた自分の価値ではなく
自分の中の宝物を発見したら
きっと
自分の素晴らしい価値を
誇らしく、大切に
思うでしょう。
自分らしさとは
実は
”神様からもらった果実”
神様からもらえる果実は
1種類だけで
自分の手で持てるだけという
決まりがあります。
だから
他の人がもっている果実を
持つことはできません。
取り替えることもできません
分かちあうこともできません。
その果実は
あなたしか見つけることができません。
あなたしか手に取ることはできません。
あなただけの果実
その果実は
自分で、自分のために
大切に味わうことしかできない。
そして
その果実は
永遠にあなたを支えてくれます。
”自分らしさ”という
神様にもらった果実を
さあ、見つけてみて下さい。
☆週末は、
美容師の MIKIKOさんとフォトグラファーの美智子さんに
1日お付き合いいただき自分らしさ発見の時間を過ごしました。
本当に自分って自分ではわからないものだと実感。
わくわく、ドキドキしっぱなし。カメラの前で、もっと輝きたい
と思った刺激的な貴重な時を過ごせたことに
感謝の時間でした。
地球を平和な愛の星にする
人は、神様と同じ姿に作られたと
聖書に書かれています。
そうであるならば、
人は神様の分身をして生まれたのであれば
その目的は
「地球を平和な愛の星にする」という使命を持って
肉体という波動をまとって
生まれてきたのかもしれません。
パソコン、スマホ、農薬、消毒薬など
人々の暮らしを豊かに、便利にする発明品は
人類へ大いに貢献したし、もっとするはずだけど・・
利用する我々に問題があるのだろうか
こころの問題、新しいウイルス、病気の出現など
僕たちの生活を脅かしています。
それは
利用する僕たちが
感謝のこころを忘れ、当たり前として
自然を、この地球を自分の意のままに
操ろうとするおごったこころの現れかもしれません。
このままでは
大事な地球を破滅の方向に導いてしまうような
気がしてならないのは、僕だけでしょうか?
トニー滝谷
イッセー尾形主演の映画「トニー滝谷」を
観た。
ほぼモノクローナルの映像の中
西島秀俊さんの語りで
淡々と進む映画。
孤独に生まれ
孤独に生きていた主人公が
愛を知り、しあわせな結婚生活を始め
二人の生活で孤独とは無縁になると思ったが
またもとの孤独状態に戻るかもしれないと
怯えてしまう結婚生活だった。
そして、唯一愛した女性も
実は孤独から逃れるための
病気を持っていたのです。
孤独者として生まれ
孤独から逃れることができるのだろうか?
淡々と語られ、淡々と進み
いったいどんな風に進むかわからない
映像の世界に
ただ独り向き合わされることで
主人公の孤独を観ていたはずが
いつのまにか自分自身の孤独と
向き合っていたことに気づかされた
後味の深~~~い映画だった。
原作は村上春樹。
全てに引き込まれる不思議な映画だった。
悩み苦しむ人たちのために
ニューヨーク大学医療センターの
ラスク・リハビリテーション研究所のロビーに
掲げられた詩を紹介します。
大きなことを成し遂げるために
神に強さを与えたまえと求めたのに
謙虚であるようにと弱さを授かった。
偉大なことができるように
健康を求めたのに
人生を間違わないようにと
病弱を授かった。
幸せになりたくて
富をもとめたのに
賢くあるようにと貧しさを授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして
強い力を求めたのに
神様の存在に気づけるようにと
弱さを授かった。
人生を楽しむために
全てのものをもとめていたが
あらゆることを楽しめる命を
自分はすでに授かっていたことにきづいた。
求めたものは
ひとつとして与えられなかったが
真に望んだものはすべてあたれられた
こんな私であるにかかわらず
言葉にできなかった祈りは聞き届けられた
わたしは全ての人のなかでも
もっとも豊かに祝福されていたのだ。
この詩は
アメリカ南北戦争の兵士が
書き残した言葉だそうです。
きっと、自分の死というものに直面したとき
知った大きな愛、人生の意図を
しったのでしょう。
今生きていること、興っていることには
全て意味があることを教えてくれる言葉。
苦しんでも、それでいい
その先には必ず救いがあるのです。
福分があるなら禍分もある
人間には、
天から与えられた福分というものがあるという。
福分とは、天から与えられた幸運のこと。
ですから、福分のある人は
いつも幸運を呼び込んでいる人のことをいいます。
福分があるのだとすると
禍分というものもあるはず。
福分があるなら、禍分は存在します。
そして人によって福分と禍分は決まっているとも
考えられています。
ですから、
嫌なことがあった時
これを自分の人生に与えられた
禍分だと考えれば
福分も必ずある、与えられると思うと
気が楽にんさりませんか?
頑張れませんか?
人は、とかくしあわせなことばかりに
目がいきがちです。
しかし自分の人生は、
しあわせだけで満たされることはありません。
現代人はしあわせばかりに目がいって
しあわせばかりを追い求めすぎてしまい
一寸でも満たされていないと
世界で一番不幸のように落ち込んでしまうのでは
ないでしょうか?
これは人生だけでなく
何事においても、いい面、悪い面
表と裏があります。
表からみれば、禍分にしか見えなくても
そのことが福分につながっているのです。
ですから
どんなに不幸な状況でも
前を向いて歩いて行きましょう。
浦島太郎が伝えたかったこと
幼い頃から親しんだ昔話
ファンタジーな世界だけど
おとなになってくると
そのファンタジーの世界が
なにか隠された真実があるような気がして
おとなになっても引き込まれます。
そんな不思議な昔話のひとつに
浦島太郎があります。
浦島太郎の物語を
解釈してみると・・・・
「助けた亀が
連れて行ってくれた深海(神界)。
龍宮はたのしかったなぁ。そうだ
お土産でもらった山手箱を開ければ
あのときの宮に戻れるかもと思い
玉手箱を開けると・・・
一気に老化し死に近づいてしまったのでした」
つまり
生きているときと
死んだときの生き方が違う。
死んでしまえば
思い出とか、過去の記憶の中でしか
生きられなくなります。
生きている間は
過去の世界に生きてはいない、いやいけないのです。
どんなことが興ろうとも
過ぎた過去に生きず
未来志向で生きなさいということを
浦島太郎のお話は教えてくれている気がするのです。
死ぬ日まで生きていく
誰にもわからないのは
いつ死ぬかということ。
誰もが経験する死が
いつ来るかわからないので
人は死に対する不安、恐怖を憶えるのかもしれません。
考えてもわからない死の対して
怯えて生きるよりも
「生きている間は生きている。
死ぬ日まで生きているんだ」
と考えればどうでしょう。
確かに、人は死に対しては無力です。
死のために備えることは
人が最もできないことのひとつでしょう。
死に対する運命は、自分では逆らえなくても
死ぬ日までは生きていくのです。
死について思い悩み
くよくよして生きても
明るい気持ちで生きてても
死が訪れる日は必ず突然くるのです。
それなら、死ぬ日まで、明るく生きていく方が
いいと思いませんか?