月別アーカイブ: 3月 2025
居るだけでいい
世界には多くの生物がいます。
人は環境破壊して発展してきたので
様々な問題が起こしてしまいきたことを
悔い改めようと
「地球にやさしく」という言葉を耳にします。
この言葉
耳障りのいい言葉で
そうだと納得しやすい言葉ですが
でも、どこか上から目線からの言葉
のような気がするのです。
我々人間は
地球にやさしくしてもらっているから
今、こうして生きていられるのではないでしょうか?
そう
人間がこの世を支配しているわけでなく
地球に生かさせてもらっているのだと思うのです。
そして
そのことは、人間だけでなくて
どの動物も植物も同じなのです。
草があるから
草を食べていのちを繋ぐ動物がいる。
花の蜜をもらい生きている虫は
花の受粉を運ぶことで
植物も繁栄してきた。
だから
その植物がいるから
生きていることができる。
その動物が植物を食べてくれるから
植物も次の生きる場所を見つけることができる。
地球上には多くの種類の動植物が存在するけど
どの生物も実は
地球全体の生態系を維持するために必要な
存在なんです。
人間も含めて
いきものは「いる」ということが重要なんです。
「何ができる」よりも
「いまここにいる、生きている」ことが
大事なんです。
これは老いても一緒なのだと思います。
人間も含めて
全ての生物は老いていく。
きっと、その老いていくことにも
意味があるはずだと思うのです。
真実の愛とは
聖書(ヨハネ福音書15章13節)に
神父ダミアンの次のような言葉が載っています。
「友のために自分のいのちを捨てること
これ以上に大きな愛はない」と。
つまり
何ものかの犠牲になって死ぬのが愛です。
だから
家族のために
こどものためにいのちを捨てることが
つまり死ぬることが
本当の愛だと言えるというのです。
もし
こどもや奥さんが絶体絶命の状態にある時
自分のいのちを捨てれるかが
本当の愛のしるしなんです。
それができないなら
それはエゴイズムなのかもしれない。
大きな悩みを持った時に
知覧の特攻隊記念館に行き
心が洗われると言う言葉をよく聞きます。
そこにあるのは
特攻隊員の偽りのない真実の愛に
触れるからだと思うのです。
多分今の時代
こどものため、家族のためだと言っても
簡単にいのちは捧げられないでしょう。
でも、こどもも奥さんも家族も
愛しているはずです。
それなら
こどもにはこどもの人生がある。
親がそれをわかっていさえすれば
こどもは自分の人生を歩いて行きます。
その人生を「祈り」「見つめる」ことが
愛だと思うのです。
年取っても増えるしあわせ
普通
年をとって老いを感じてくると
できないことが増えてくる気がして
これからの人生を鑑みて
黄昏れてしまう方も多いことでしょう。
どこかしあわせが逃げて言ってしまうような。
本当にそうでしょうか。
年をとると
感じるしあわせは減ってしまうのでしょうか?
それは
年をとると
しあわせが減っていくものだ
思っていませんか?
年をとっても感じるしあわせは
決して減っていないことに気づいて欲しいのです。
若いころは気づかなかったしあわせが
年取ったら気づくことがあるのです。
例えば
年取った人が膝を痛がっている話しを菊と
膝の痛みがないことにしあわせを感じます。
歯が弱くなっても
歯を治療してまたしっかり食べられるようになるだけで
食べられることがしあわせになります。
見えにくくなっても
メガネをかけると小さい文字でも
また読めるようになれば
目の前が明るくなりますよね。
昨日と違った
しあわせを感じる日々が
来るんです。
年をとってからの方が
当たり前のしあわせ
ささやかなしあわせを感じながら
生きていけるのかもしれません
人生の目的は、燃え尽きること
「旅に病んで 夢は枯れ野を 駆け巡る」
この句は松尾芭蕉の辞世の句として
有名ですが
この歌は
芭蕉が死の床にあった時に書いたのではなく
30代の頃に書かれ
予め用意されていた句だとも言われています。
そうだとすると
この句は芭蕉の辞世の句というより
芭蕉の生きていく姿勢・思いが込められているのです。
芭蕉はきっと目的があって
旅を続けて
旅の途中で死してもいいという覚悟だったのでしょう。
僕は旅をするわけでないが
生きている限り
人生という旅をしているのです。
人生の目的は
どう生きていこうとも
最後は芭蕉の覚悟のように
燃え尽きて死ぬを迎えることが
人生の目的、そして最高の生き方だと
芭蕉の句は教えてくれている気がするのです。
せねばならない生き方、したい生き方
人は行動する時
○○せねばならないとか○○あるべきだと
と言う基準で動くことがある。
特におとなになって
社会にでて、様々な責任を持つ立場になれば
なおさらこのねばならないという
ことで動くことが増えてくる。
でも
このねばならないという行動基準だけで
生きていると
きっと、なんのために生きているのか
人生の目的を失ってしまいそう。
だからねばならないと言う反対の考え方が
必要になってくるのだと思う。
それは
○○したいという考え方。
したいことがあるから
今頑張れる。
したいことがあるから
今やらなければならないことだって
できるのだ。
生きるために
ねばならないことと
したいこととの
バランスが大事なのです。
今できること : 強みを考える
よく老いることは鍛えること
年を重ねていき
還暦を迎え、これからどのように生きようかと
考えることが多くなってきました。
よく老いるとは
どういう風に生きることでしょう。
老いると言う字には
にくむという意味があるそうです。
ここで言うにくむとは鍛えるという
と言うことです。
人間は
言わずもがな
ひとりでは生きていけません。
自然の中で
自然に生かせてもらっているのです。
でも
自然はいつも人間に対して
優しいかと言えば・・・・
そんなことはありません。
真夏には
油断するといのちを落とすことも
冬にも
心臓に負担をかけてしまうことも
そして
いのちを生活を脅かす地震などの
自然災害に襲われることだってあります。
自然にいじめられ、鍛えられて
人は強くなっていくのかもしれません。
そして、年をとっていくと
ますます体力も落ちていっても
自然の過酷さを乗り越えて
生きていかなければなりません。
老いる過程
衰えを乗り越えて
自然の過酷さと対峙して
生きていかなければなりません。
その自然と対峙する姿
全身全霊を込めて
大自然に向かっていく姿こそ
老いの美しさではないでしょうか?
自然の過酷さが
生命を育み、日々老いていく人間を
形成していくのです。
自然の中で老いていくことが
よく老いることだと思うのです。
アウフヘーベン
この言葉の意味は
相反する2つのものを
どちらも諦めさせることなく
上手いアイデアで両立させることを言う言葉です。
人間は確かに生きていくために
現実を見極める力は必要。
でも同じくらい幻想を描く力も必要。
人間は、夢と現実の中を生きている。
夢だけでも生きてはいけないし
現実の中だけで生きていっては
行き詰まってします。
夢を現実にするアイデアを見つける
旅をしているのが人間。
それがアウフヘーベンの意味
大いなる不在
全ての時間的空白を
埋めるために
現在と過去の時間を行ったりきたりする
隠された家族(父子)の過去を
ミステリー映画のように
あぶり出していく。
インテリな父親であっても
認知症になると
知らず知らずのうちに
記憶が思考力がぽっかり抜けたようになり
ファンタジーの様な
世界に
どんどん入り込んでしまい
そこからどうやって抜け出そうか
苦しんでいく。
でも、本人との願いとは別に
現実的には
その世界から抜け出すことは難しい
ことはわかってきて
助けを家族にそして最終的に
警察に助けを求める。
でも、そこに本当の救いはないのかもしれない。
将来訪れるであろう
老いの世界、世界に戸惑いを感じる
とても複雑な映画だった。
ゼロ思考
ゼロ思考という考え方がある。
人は判断する時に
プラスかマイナスかで考えがち。
プラスでもマイナスでもない
ポジティブでもネガティブでもない
ニュートラルなあり方で生きていく
生きていこうと考えていくことが
ゼロ思考。
生き方に迷った時
今、前向きなのか?
今まで、後ろ向きだったのかと
自分自身を振り返ること有り。
でも、たまには
後ろ向きでも、前向きでもなく
そこにとどまることが必要。
プラス思考がいいとも言われるけど
プラスの面が強すぎると
反省が乏しくなることが玉にキズ。
今現実に起こってる厄災は
一度ズレ始めた方向のズレが
立ち止まらないと
そこに気づかず、どんどんずれてしまうのです。
だから
プラス思考でもなく
マイナス思考でもなく
何も考えないゼロ思考の時間が必要なのです。
ゼロ思考になると
今まで見えてこなかったものが
きっと見えてくるものがあるはずです。