投稿者「santa」のアーカイブ
中今を生きる
この週末
矢作直樹先生から
いろんなお話をお聞きしました。
その中で特に心に残ったことは
”中今に生きること”
あと少しで令和の時代を迎えます
どんな時代になろうと
大切なのは中今
つまり
今に集中して生きること
過去に囚われることなく
どんな過去であっても
今があるのは、過去のおかげ。
だから
今この瞬間を
過去に感謝し
過去を喜び
過去を懐かしむ心をもって
生きたらいい
未来を心配しなくてもいい
今というこの瞬間を大切に生きれば
未来は楽しみ、喜びへとつながっていく。
今何も心配することはなく
悔いることなく
憂えることなく
生きればいい。
悔いる気持ち
憂える気持ちは
心だけでなく
人の体も壊してしまいます。
糖尿病で糖質制限中
ケーキをどうしても食べたくて
半分だけ食べてしまったとしたら・・・
罪悪感をもって食べたてしまうか?
とても美味しいといって食べたか?
食べたことを悔やめば
病気は進行してしまうでしょう。
運動不足を指摘されて
きつい運動をイヤイヤするのと
5分でも軽い運動をいい汗かいた?
と思えるたら
からだの調子はずっとよくなるでしょう
その時を
喜んだか、苦に思ったかで
その後の結果はきっと大きく変わってくる。
病気を進行させるか
健康に近づけるかは
その時の心ひとつにかかっていても
不思議ではない
人には
いつの日か
誰にでも死は平等に訪れる。
その日を
どんな風に迎えるかは
今の自分自身にかかっている。
今を
この一瞬、一瞬を
精一杯生きたかどうか
中今に生きることの大切さを
矢作先生に教えていただきました。
今を大切に
今日も、明日も生きていきましょう。
【免疫力をつけるとは?】
コロナ対策で世の中のみんな頑張ってます。
行動規制して、自粛して、仕事を休んで
感染が広がらないように
感染を広げないように
ひとりひとりが
気をつけて過ごしています。
そんな時
よく聞かれるのが
”免疫力”を上げましょうという言葉。
免疫力を上げる?とは
どういうことでしょう
コロナ感染に負けない、これは戦争だ
国民全員で戦いましょう・・・など
戦うという姿勢を鼓舞する言葉をよく耳にします
これは戦いだから
ウイルスをやっつけなければ
ワクチンが薬が必要
そして
免疫力をつけて戦いましょう・・・・と続きます
実は免疫力をつけることは
ウイルスと戦う、相手に勝つことばかりではありません。
確かに、免疫力には
ウイルス、アレルギーなどの
体外からの侵入者を排除する”拒絶”する力を
指すこともありますが
もう一つ
妊娠したお母さんが、非自己である胎児を
”拒絶”せず受け入れるように
愛で育むという
”寛容”という力もあります。
今までのように
病気にならないように
病を、ウイルスを拒絶、排除するのではなく
たとえ
今回のコロナウイルスのような未知のウイルスであっても
相手の見えない病気であっても
大きな愛で包み込めるような
受け入れる”寛容力”をつける ことが
必要な時代に
これからは変わってくるのだと思います。
ですから医療も
これまでの闘う医療一辺倒でなく
病を受け入れられる力をつける医療に
相手を憎む医療でなく
愛で包み込む医療
が求められる時代になると思います
それが
これからの時代に必要なこと免疫力であり
そして
僕の理想とするこれからの医療。
当院でめざし推進している医療です。
愛に溢れる社会になることを
願って活動していきます。
☆外出制限の中
我が家は屋外、自然の中で
お弁当を食べたり
お菓子を持って、ハーブを摘んで
お茶したりすることが増えました。
まさに
大自然に受け入れられて生かされていると
感じながら過ごしています。
拈華微笑(ねんげみしょう)
これは、仏教の言葉です。
ある時お釈迦様のご説法を聞こうと
集まっていました。
でも、お釈迦様は何一つ語られず
ただ、無言のまま一輪の花を高く掲げたのです。
その姿をみてみんな戸惑っていると
お弟子さんの一人だけ
それをみて微笑んだのです。
その微笑みを見て
お釈迦様は「今、教えが伝わったのと
その弟子摩訶迦葉(まかかしょう)を
後継者に決めた
という逸話に基づいた言葉です。
本当に大切なものは
言葉ではなく、心から心にしか
伝わらないことを
表した言葉でしょう。
2500年以上前の
お釈迦様の教えは
多く、そして深くあります。
その教えを言葉で説明したら
どれだけ時間が合っても足りない。
だけど
心と心が通じていれば
花一輪で全てを語ることができることを
この言葉は教えているのでしょう。
世界の長寿域に学ぶ長寿の生活
年を振り返る時に
憶えていて欲しいのは
「年令と衰えは必ずしも関係しない」ということ。
そう考えると
老いに対する不安を感じにくくなり
年を重ねることが怖くなくなります。
衰えは
日々の生活から来るので
長生きをしている人、生活に
長寿のヒントがあるのです。
そこでパキスタンのやジョージアなどの
世界の長寿国の共通する生活を紹介します。
①食事が適切。
食べ過ぎないこと。
新鮮な野菜とハーブをいつも食べている。
肉と脂肪を取り過ぎない。
夕食は満腹まで食べないこと
②生涯を通じて仕事をしている。
こどもの世話をしている
③家族と地域社会を大切にしている。
社会の中での関わりが強い
④運動とリラックスが日常の生活に取り入れている
ということ。
そんなに目新しいことはなく
食べることも気をつけ
運動もして
仕事もして家族のため社会のために
活動している方も
多いでしょう。
これは、頭でわかっているから
生き抜くために、長生きするために
頑張って続けていませんか?
まるで義務感のようにやっていては
ストレスになってるようでは
逆効果になってしますのです。
長生きすることは、目的でなく結果なのです。
毎日人のために生きていると感じ
毎日を楽しんでいると
自然に長生きして
地域に愛される
おじいちゃん、おばあちゃんで
生きていけるような気がします。
夢は夢にあらず
これは
歌手谷村新司さんが遺した言葉。
夢は
それを夢だと思った時に
幻となって消えてしまう。
夢を夢だと思っているうちは
夢のままで終わるというのです。
そうだと思います。
夢は必ず叶うと思わないと
夢は夢のままで終わってしまう。
そのことを教えてくれる言葉です。
愛はイナズマ
主人公の折村花子は
こどもの頃から
映画監督なるという夢を追いかけて
ついに映画を撮るという
チャンスをもらえたが・・・
これまでのやり方に固執する
プロデューサーをはじめスタッフに
花子の考え方を完全否定されるが
決して自分の理想を曲げない花子は
理不尽な理由で
映画制作は中止、題材も撮られてしまった。
おとなの世界に傷ついた若者は
世の中にはたくさんいる
夢に破れた時、そこから逃げ出すこともできるが
花子は、自分で映画を撮ろうと決意する。
花子は自身の家族を題材にしていたので
その映画を撮ろうと
家に戻り
それまで離散していた家族が集まり
映画を撮ることにした。
後半は
家族再生の物語となる。
この映画は
家族に問題がある少年時代を過ごし
小さい時からの夢を追いかけたが
挫折し
家族の力を借りている内に
自分たちに同じ血が流れていることを感じ
確認していくという
ある意味ベタな内容だった。
でも
もがく若者の姿を
応援している、涙を流して拍手を送っている
自分が最後はスクリーンの前にいた。
僕は
若者の生きる道をしっかり
応援したいのだと
自分の気持ちが整理できた映画だった。
キューリ夫人 天才科学者の愛と情熱
という映画を観た。
キューリ夫人といえば
ノーベル賞を二度授賞
一度は夫婦で、そして二度目は夫人単独で
授賞された
まさにリケ女の鏡といううか最先鋒の方
という印象があった。
確かこどもの時に読んだ偉人伝を読んだはずだけど
この程度の印象しかなかった。
そこで、今回
どんな功績があるのか、人生の歩みも知りたくて
改めて伝記映画を観た。
思っていた通り
意志の強い、プライドも高い
真実を追究することに信念をもつ
女性として描かれていました。
でも、その中で
こどもの伝記には描かれなかったこと。
科学の発展が
人々のしあわせのためではなく
戦争などの平和を脅かすことに
使われることを嘆いたり。
スキャンダルに巻き込まれ
誹謗中傷に悩まされ
精神的肉体的苦悩を味わされていた。
最後は
持ち運びができるX線装置を作り
実際戦地に自ら赴き
医療者ではないけど
人道的支援も行った姿が
描かれていた。
科学を追求するためには
鋼鉄のような強い意志が必要だとともに
自分の発見が
人類の竹に使われるかどうかを
その後を愛のために使われているかに
常に目を光らせて行かなければいけない使命がある
ことを
キューリ夫人、そしてこの映画は伝えてくれた。
ここからは予断だが
女性であることで
きちんと評価してくれない時代の波に苦しんだ人生。
きっと、キューリ夫人と呼ばれることに
当時は抵抗したと想像します。
今も、世界中にキューリ夫人と呼ばれることに
こだわらず
やさしいまなざしでこの世の行く末を
見守ってくれている気がします。
死を思うのはなぜ?
誰にもいつか必ず
訪れる死。
その死について
いつ来るかもわからない
死んだ後もどうなるのかわからない
死に対することを
いくら考えても、誰も答えはでない。
でも、実際誰もが必ず経験する
死を思い、考えることは
とても大切なことだと思うのです。
死を考えるいると
死の先を考えてもわからない分
死の瞬間のことを思うと
考えはその先に進むというより
それまでの日々
すなわちどう生きようか
どう生きたらいいのかと
生きると言うことに考えが行くようになります。
そして
死を終わりであり、死を敗北と考える
人もいることでしょう。
僕は死は敗北ではないと思います。
刻々の生を大切に生きていると
死は生んお終わり・敗北ではなく
生の最終結果、生の勝利なのです。
死は勝利のゴールに向かって生きること。
死を迎えることは、決して空しいことではないはずです。
母のこどもに対する願い
解剖学者の養老猛司先生のお母さんは
小児科医の医者で
亡くなる95歳になるまで
現役で医師として働いていたことを
先生の自伝を知りました。
そのお母さんが
養老先生に遺した最後の言葉が
「おまえがこどもの時と同じ顔しているから
安心した」で、この言葉が忘れられないと
語られていました。
解剖学者でバカの壁の著者として
有名になり
超多忙な毎日を過ごした先生のことを
ストレスを抱えて生きているのでは?
とお母さんは心配されていたのでしょう。
こどもの時から昆虫好きだった先生が
オーストラリアで虫を採る番組を観た
お母さんから言われた言葉のようなのです。
僕の親もそうでしたが
こどもの思い出は
小さい時の面影をずっとこころに抱いていて
その無邪気だった時のまま
生きて欲しいと思っているのでしょう。
親にとって
おとなにとっての成功するかどうかよりも
無邪気の心のままで
いつまでも過ごして欲しいと思っているのが
わかった
養老先生のお母さんのエピソードでした。
第三の人
英国の詩人のエリオットに
次のような詩を紹介します。
「いつも君の傍を離れず歩く、
あの第三の人はどなたでしょう。
数えると、君と僕しかいないはずだが
しかし、はるかにつづく白い道を歩む君の傍らには
いつも、もう独りが寄り添う
どなただろう、その方は?}
エリオットは
この第三の人にイエス様を
イメージしたというようです。
日本にもお遍路さんで
同行二人という考え方もあります。
宇宙創成138億年の歴史の中で繋がっている
我々にも
計り知れないものは多々ある。
だから
第三の人がそっと我々に
メッセージを送ってくることがある。
何か感じる
不思議なご縁にであう
セレベティビリテイといわれる
偶然とは思えない偶然の出来事に
出くわすこともある。
我々が気づかないだけで
多くのことが
第三の人の計らいであり
いのちのわずかなリスクでも
直ちに当人につたえようとする
第三の人からのメッセージかもしれません。