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一隅を照らす生き方
#一隅を照らす生き方
一隅を照らす生き方とは
ひとつの灯火を掲げて
隅を照らす生き方をすれば
社会も国も
そして何よりも自分も益々明るく照らす
光になるという意味です。
しかし、人は
自分のことは棚に上げて
他の人のことを批判しがちです。
SNSで炎上する
社会でも憂さを晴らすように嫌がらせをするなど
目に余る行動が目につきます。
だから
一隅を照らす生き方をしようと
決意することは
今の時代にとても大切なことと思えるのです。
でも
そう生きようとしたときに
耳元でこう囁く声が聞こえてくるかもしれません。
「僕のような無名の人間が
いくら頑張って見たところで
世の中はかわりはしない」
「私のような無力な人間が
ひとりで頑張っても
どうにもならない」と
いう自分の中の心の声が聞こえてくるかも
しれません。
一隅を照らす生き方をするためには
そんな声と戦い続けなければなりません。
一隅を照らす光になるためには
隅を照らすこと
つまり
自分の生きている場所で
最高最善の社会に役立つ
仕事をしていきていくこと。
その小さな灯火が
国の隅をも垂らし
国や社会全体を明るく照らす光になるのです。
みんなで一隅を照らす生き方を
実践していきましょう。
心の生態系
地球の環境は
微妙なバランスの上に成り立っています。
1991年にアメリカにおいて
「バイオスフェア2」という実験が行われました。
これは
地球の環境が破綻したときに備えて
巨大なガラスドームの中に
空気や水、土壌とともに
3800種類の動植物を持ち込み
外界とは完全に隔離された「生態系」を
人工的に創り出し
その生態系を人間の生存に適した状態に
制御しようとする実験が行われました。
結果は・・・
酸素濃度の低下や生物の死滅
虫の大量発生などの問題に直面し
2年間で中止になっています。
地球の生態系は
科学だけでは説明できない
微妙なバランスで成り立っていることが
この実験が示しています。
今地球の生態系はどうなっているのかという視線で
地球全体を眺めてみると
もちろん地球の環境自体も
今までに経験したことのないような
状況になっているような気がします。
生態系が崩れ始めているのは
自然の生態系だけではない気がします。
いまもなお、異なった人種、異なった民族
異なった国家、異なった宗教が
互いに争いを続けている
地球上の人類。
地球上の80億の人間の心のバランス
「心の生態系」があるならば
そのバランスは崩れそうな
危機的な状況にあるのではないでしょうか?
地球の環境を憂えると同時に
自分たちも確実に関与している
自分の周りの人のバランスが影響している
「心の生態系」について
真剣に学び、行動しないといけない
時期にきていると思うのです。
妻と私
評論家の江藤淳氏の奥さん慶子さんが
治癒不能の癌に侵され過ごした日々を綴った
エッセイ「妻と私」を読んだ。
二人三脚で歩んだ
結婚生活の41年間の最後の数ヶ月の日々
本人は生と死の時間だと
綴ったように
淡々と闘病の日々が
綴られているが
その時の気持ちの襞を感じると
胸が裂かれる気がする。
そして奥さんの最後の日々に
ご自身も
病気が発症し
「奥さんを見送り
お墓に治めるまでは、頑張ると」
ご本人の強い気持ちを
感じるエッセイだった。
この本は
奥さんの死で完結になっているが
その後の江藤さんのその後が気になった。
こどもがいなかったので
二人で生きてきた人生を
一人でどのように歩んだんだろう?
何を生きる糧に生きているのだろうと
その後江藤淳氏のその後を知りたくて
ネット検索すると
衝撃の事実が
奥さんをお墓に治めた後
自ら脳梗塞を発症し
きっと不自由な身になってしまって
生きる目標を失ってしまったのでしょうか?
奥さんを納骨した年に自殺していたのです。
ネットでは
その死の直前に書かれた遺書が
名文、素晴らしいと書かれていました。
その死を決意した思いを
力強い言葉で綴られていた。
短い文だが、精一杯生きられた
思い残すことのない人生だという
思いがこちらの胸をえぐる
ここに全文を載せておきます。
「心身の不自由が進み、病苦が耐え難し。
去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来
江藤淳は、形骸にすぎず
自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
諸君よ、これを諒とせられよ。
平成十一年七月二十一日 江藤淳」
僕は今、聞いてみたい
「江藤淳さん
今、どう思われていますか?
今でも作家としての綺麗な幕引きに
後悔はありませんか?」
人は人で磨かれる
若い人だけでなく、誰もが
日々成長しようと
切磋琢磨し、
学びの毎日を過ごしていると思います。
学ぶ方法は人それぞれでしょう。
本などの過去からの知識から得る方法
自分よりも確かな知識をもっている恩師から学ぶ方法
自分の過去の失敗から学ぶ方法
など、様々でしょう。
学ぶには、効率の良い方法は
人から学ぶ方法です。
でも、人から学びたいと思っても
どこか
傷つくことを怖れてはいないですか?
そのために、人を怖れ、自分を守ろうとすれば
世間を狭くし、結果自分の心も狭めてしまいます
人はひとりで生きていけないのです。
人は人で磨かれるとこを知って
今日もしっかり学んでいきましょう。
静寂から音楽が生まれた
久しぶりにピアノコンサートにでかけた。
演奏者は
2021年の第18回ショパン国際ピアノコンクール
第2位を授賞したアレクサンダー・ガジェヴ氏。
世界最高のコンクールで入賞し
実際にその時のライブを聞いても
その実力は折り紙付き。
実際にどんな演奏されるのか
とても楽しみにして会場にはいった。
演奏が始まる前に
ガジェヴ氏のメッセージがあり
会場全体が暗くなって
2分間の沈黙、つまり静寂の時間を作った。
その静寂の時間から
世界が生まれるように
ピアノの音が奏で始まった。
美音、まさに美音
美しい音楽の世界に出くわした。
その後は
美音の世界に包まれ
自分の心がどんどん浄化されていくのを
感じた。
音の力は確かにある。
音の力?
そう言えば、坂本龍一さんは
「僕は音楽に力があるという言葉は
嫌いだ。
なぜなら、音楽に力があるのではなく
その音を感じた私たちの力が
そう感じさせるのだ」と
いう言葉が蘇ってきた。
なるほど
音を感じる力を感じながら
僕は生きていることを感じることができた
コンサートだった。
しあわせはどこにある?
しあわせがどこにあるのか?
しあわせはどこから来るのだろうか?
と考えたことはありますか?
もししあわせがやってくる
ことがわかっていれば
苦しみの中にあっても
笑顔で切り抜けることができるのに
と思ったことはありませんか?
僕は
今生きています。
病気もしました、人生の中で
様々な失敗もしてきました。
やるべきことを考えれば
今も、将来に対しても多くあります。
が、今しないといけないことは
今日訪れる患者さんに対して
誠心誠意、力を尽くすこと。
これが、僕の毎日の生活の大部分を占めています。
一日が終わったとき
自分のやろうと思ってたことが
何もできていなくても
ホッと安心して帰って行かれた患者さんの顔
メタトロン、予防接種、健診などを受けて
笑顔で帰っていった
患者さんの表情を思い出すだけでも
とてもしあわせな気持ちで
一日を終えることができます。
そんな時、わかったのです。
そう、しあわせがやってくる方法。
それは・・・
しあわせは、目の前のことを
ただただ、何も考えずに
一生懸命やった結果の後にやってくるのです。
ぜひ
まず目の前のことを一生懸命やってみて下さい。
そうすれば
しあわせが訪れますから
目の見えない白鳥さんアートを見に行く
という映画を観にいった
目の見えない人が美術館に行く?
なぜ行くの?
どんな風に鑑賞できるのか?
わからないことだらけの
この映画の題名に惹かれて
映画を観てきた。
映画を観て
美術館に行った時
知人や、学芸員の方に
絵の描写を語ってもらい
その言葉を足がかりにして
想像力を働かせて
その絵を理解していっていた。
そのことは
日常生活の風景からも
伝わってきた。
白鳥さんは
全盲であっても
杖一本をもって
街の中へ健康の人と同じように
飛び出していくのだ。
自分の一歩前の状態を
杖で確認しながら
どんな障害があっても
避けながら進んでいくのです。
ひとりで
スーパーに買い物に行くし
居酒屋にもいってお酒も飲む
日常生活を謳歌していることを
教えてくれる。
そして
毎日散歩に出たとき
カメラのシャッターをきる。
もちろんその写真を自分で観ることはできないのに
毎日とって40万枚の写真を撮っている。
シャッターの音ともに
その記録は消えていくと
白鳥さんはいう。
つまり、シャッター音は
今生きている証
次に進めの合図になるのだろう。
全盲の人にとって
見えないことは障害になっていない
のだと思う。
健常な人の都合で
目の前の道を防いだとしても
その思いを受け止めて生きている。
それは
目に見えるものの先にあるものを
感じて、受け止めて生きていく
広い心が育まれているのだと思う。
目で見えることに
惑わされず、その先にある真実の心を感じて
生きていかなければいけない。
そう、強く感じさせてくれた映画
白鳥さんの生き方が教えてくれた。
祈りと願いの違い
困ったことがあったり
将来に対して進むことがあると
人はよく
神社、お寺に行って
神様、仏様、ご先祖様に手を合わせる方は
多くいらっしゃるでしょう。
今年も初詣で
今年一年の無病息災を
願いした人もいたでしょう。
また
平和を祈った人もいることでしょう。
神仏に手を合わせた時
あなたは何を願いましたか?
または
何を祈りましたか?
ここで考えて欲しいのは
“祈り”と”願い”の違いです。
“願う”時のことを想像してみて下さい。
その時のあなたは
必死で自分の熱い思いを伝えていませんか?
あなたの思いが届くように熱く語っていませんか?
その時
あなたには神様の声が聞こえたことがありますか?
願っているときは
きっとあなたの声を神様に届けるのに
一生懸命で
伝えることで満足していることでしょう。
それに対して”祈り”は
神様や仏様に
思いを伝えるときに
ふと、彼方からの声が
聞こえてくることがあります。
言葉としてなく
無音の言葉として胸に届いてくることが
くることがあります。
その時、あなたの祈りは
神に仏に届いたと思うでしょう。
願いは、自分の思いを届けること
祈りは、彼方からの声に耳を傾けること
の違いがあると思うのです。
心感じるままに
若い時は
いろんなことを学びます。
学んでるときは
「真実とは?」{正しいこととは?」などに
目がいってしまいます。
そして、
なんのために勉強しているのか
わからなくなってしまうこともあります。
実は勉強し学びを深めることも大事だけど
実は
学んでる時でも
何をする時でも、
その時の感じる心が大事。
”勉強して、わかって楽しくなった”
”今日、頑張って走れたことがうれしい”
”そうじをすると、心がすっきりした”
”お友達と仲良くできて、心が明るくなった”
とか
心で感じたことを
大事にしてもらいたい。
心に感じたことを
大切にして
日々暮らしていくと
”自分は今、何をしているとうれしいのか
自分は今、何をしている時が充実してるのか”
考えるようになります。
そんな風に生活していると
何かに悩んだ時でも
その心の中に
自分らしく生きるヒントを
見つけることができます。
しあわせになる鍵は
自分の心の中にあるのだと思います。
将来
何をしたらいいかわからなくなった時
なぜ、勉強しているのか
わからなくなった時は
自分の心に質問してみて下さい。
”今、何をしたら楽しい?”
いつも
どんな時も
頭で考えたことより
心で感じることを大切に
生きてもらいたいです
失敗した時はこう考えよう
人生にはいい時も悪い時もあります。
その時起こった出来事をどう考え対処していくかが
あなたの運気を上げることになります。
例えば、人生において、不幸な出会った時
次のように考えてみましょう。
「この苦労は、自分に何を教えようとしているのか?」
「この失敗は、自分に何を学ばせようとしているのか?」
「この挫折は、自分に何を掴ませようとしているのか?」
「この病気は、自分にどんな生活を伝えようとしているのか?」
などと、その意味を考えてみましょう。
でも、そう考えようとしても
頭の中が固まってしまっていたり
考えても考えても、答えが見つからない時は
どんどんネガティブ思考に捉われてしまいます。
そんな時は、何も考えず、がんばりすぎず
ただ動きだけは止めてはダメで、立ち止まってはダメ。
からだを動かせて、目の前のやらないといけないことを
しっかりやり続けることです。
目の前のことをやっているうちに
目の前に救いの光に気づき
あなたをネガティブな闇から、救いあげてくれます。
ダライラマは、次のように言っています。
「どんな壁があっても、実践を繰り返せ。
動け、止まらずに動け、動き続けるのだ。
仏の道が、その生き方で開けてくるl、」と。