投稿者「santa」のアーカイブ
自分との約束を守る
やってはいけないことって
世の中にたくさんあるけど
どんなことがあっても
やってもらいたくないことがある。
それは
自分にうそをつくこと
自分にうそをつかない方法って
色々あると思うけど
まずやってもらいたいのは
”自分の決めた約束を守ること”
自分との約束って
例えば
朝6時に起きる、帰ったらすぐ宿題をする
寝る前に明日の準備をする
お友達と仲良くする
・・・・
その約束はどんなことでもいい。
でも、どんな約束であっても
自分とした約束は絶対守ることが大事。
どうして、自分との約束が大事か?
自分との約束を守るということは
自分自身に勝つということ。
己に勝つことができれば
相手がどんなすごい人であっても勝つことができる。
自分の心さえ操れない人が
いつも妥協している人が
他の人に勝つことができますか?
”自分への一敗は
世界すべての全敗に等しい”と
おっしゃる方もいます。
自分との約束が果たせないって
とても大変なことなんですね。
最近自分とどんな約束をしましたか?
その約束は守れましたか?
日々、チェックしていて下さい。
誰もチェックはしてくれません
自分自身で、正直にチェックしてみて下さい。
自分を守れるのは
自分しかいません。
自分自身を裏切ってはいけません。
自分自身の約束を
やり切ることが
まず最初にすること。
その自分との約束を
いくつも重ねていけば
やがて
習慣になり
己の成功へと続くのだと思います。
「苦しい」の本当の意味
お釈迦様は、「生老病死」を四苦、
生きることに伴う四つの苦しみだと言われました。
ここでいう「苦しみ」は
「苦しい」ということではい
思い通りにならないことを
思い通りにしようとすることだと知りました。
人は思い通りにしよう、したいと思っても
思い通りにならないこと
苦しみになるというのです。
生きることも、老いることも
病気になった時も、死ぬ時も
自分の思い通りには
決してなりません。
だから、苦しいのです。
ですから、思い通りにならないことを
手放せば
その苦しみはなくなるということです。
腕が抜けた
お買い物途中のお母さんが、
「腕が抜けました」と駆け込んできました。
おこさんは大泣き、お母さんはオロオロ大あわて。
腕が抜けたと大あわてした経験って
意外と多いかも。
そこで
今日は、腕が抜けた時、肘内障についてです
肘内障は
おこさんの手が急にひっぱたられた後
手を持って振り回した遊びをした後
自分で不自然な体勢で腕をひねった後
肘を体の下にして寝ていた後
など
急に
腕を痛がり、腕をだらんとしたまま動かさない
手のひらが後ろに向いている。
万歳の格好ができない
肩や手首の関節が腫れていない
肩を触っても痛がらない。
このような時は、
肘内障の可能性があります。
肘内障は、実は肘の関節が脱臼したわけではありません。
肘関節の骨と骨をつないでいる靭帯が未発達なため
靭帯から肘骨頭が外れてしまったのです。
肘内障と診断すれば、すぐ整復します
肘を抑えた状態で肘を曲げて
手のひらを何度か左右に回すと
カチッと音がして整復が終了です。
その後は、何事もなかったように
ニコニコして手を大きくあげています。
整復されたらその後は固定の必要も何もありません。
整復は簡単なようですが
ちょっとしたコツがあるので
きちんと小児科医か整形外科の先生から教えてもらってくださいね。
もし
整復したのに、いつまでも痛がり動かさない時
高いところから落ちた後だったり
大きなものにぶつかった後などの時は
鎖骨などの骨折の可能性があるので
整形外科の先生に見てもらいます。
肘内障は
2歳~5歳ぐらいのこどもに多く
7歳以降になることはほとんどありません。
また、一度肘内障を起こすと
何度も繰り返しことがあります。
ですから
こどもの手を引っ張る時は、手首ではなく
手のひらを持つようにしましょう。
腕が抜けた時と思った時
あわてて整形外科に行かなくても
まずはかかりつけの小児科医に
相談してみてくださいね。
空の美しさを感じたら
この時期
空を見上げると
どこまでも高く
どこまでも広がる青い空
青い空の中を
白く輝く雲
本当に美しい空に出会える。
美しい空をみていると
この光景出会えたことが
うれしくなる
その美しさを感じたことが
喜びになる
そして
心もからだも喜んでるのを感じてくる
美しいものを
心とからだで
美しいと感じられることは
心から健康な証拠なのかもしれない。
美しい空をみていると
今、地球に生まれていることも
今、自然の中で生きていることも
あたりまえのことじゃない
とも思えてくる
そして
今この瞬間、瞬間を
大事に生きれば、
命が輝き出す
健康でいられることを
青い空が、白い雲が
教えてくれているのだと思う
美しいものを
美しいと思える
心をいつまでも持っていれば
いつまでもしあわせでいられる
温かい心
毎日気になったこと、お伝えしたいことを
綴っていて、色んな人に読んでいただき
毎日勉強になりますよという声を頂いたり
日々有難い気持ちでいっぱいです。
このブログで
毎日感じること、自分の気持ちを
飾らず、素直に綴っています。
日々テーマは色々ですが
一貫して大事にしていることは
“温かい心”です。
毎日赤ちゃんを診察して思うのは、
赤ちゃんはとっても温かく、
命そのものだということです。
赤ちゃんの温かさは、命そのものの温かさ、
そして
その温かさは、心を温めてくれます。
命が身体も心も温めていることを教えてくれます。
また
赤ちゃんは
一生懸命に息をして、おっぱいを飲んで、泣いて、
どんな時も赤ちゃんは必死で生きています。
必死に生きること、
つまり命を大切にして生きるから、
心も温かくなるのだと思います。
そして、
温かい心をもった赤ちゃんは、
周りの人を明るく穏やかな気持ちにさせてくれるので、
赤ちゃんの純粋な温かい心に触れたくて、
多くの人が集まってきます。
温かい心は、周りを照らす光になります。
温かい心は明るい光となり、
たくさんの人の心を温かく、
明るくすることでしょう。
そして、
更にその人を輝かせることでしょう。
温かい心は、
赤ちゃんだけが持っているのではなく、
誰もが生れた時から持っている心です。
ですから
命を大事にしないと、
心は冷めてしまうかもしれません。
せっかく温かい命を与えられたのですから、
命を大事にして、
温かい心で日々過ごしましょう。
渇愛
人はその日の気分で
日々左右されています。
例えば雨が降る、降らないでも
人の感じ方はそれぞれです。
水不足を心配した人なら、
久しぶりの雨を“よかった”
と思うでしょうし、
レジャーを予定していた人にとっては、
冷たい雨を“残念だ”
と思うことでしょう。
実は、
この雨の良し悪しを決めているのは
自分自身。
自分たちの都合によって、
良し悪しのレッテルを
張っているのです。
例えば、雨の予報だったので、
雨具の準備をしていたのに、
雨が降らなかったら、
少し肩透かしを食らったかのように、
雨が降らなかったことを
残念に思ったりしませんか?
雨は望んでいなかったのに、
雨の対策を打った時点で
ひそかに雨を望んでいた
のかもしれません。
雨が降るという天気に
悪気はありません。
感情もありません。
雨が降ることに対して
良し悪しと判断しているのは
自分自身。
そして、そのレッテルを張っているのは、
自分の脳です。
実は脳は、
ありのままの世界を
認識しているわけではなくて、
自己中心的な思惑によって、
世界をゆがめて認識をしています。
この自己中心的な思惑を
仏教では“渇愛(かつあい”と言うそうです。
元々嫌だと思っていたものを、
ひそかに望むようにゆがめてしまう。
その世界を作り出しているのが、
自分自身、自分の脳です。
実は私達の感情は、
自分の脳の“渇愛”という
わがままさんに振り回されて
いるのです。
ですから、
雨なら雨を、
晴れなら晴れを、
ありのままをありのままに
受け入れることができたら、
毎日が生きやすくなるんでしょうね。
落下の解剖学
という映画を観た。
この映画は
人があまり訪れない山荘で起こった
この住人の夫が
落下死亡事件に対して行われた裁判。
この事件
目撃者は夫婦と視覚障害のある息子、盲導犬
しかいない。
目撃者も、物的証拠も少ない中の裁判。
事故だと訴える奥さん
奥さんが犯人だと主張する検察側。
目撃者もなく
物的証拠も少ない中
人の意見や録音されたものなど
数少ないもので
人々の憶測で組み立てられた
話が法廷で
真実かのように語られる。
事実はひとつでも
同じひとつでも
人はどう考えて、どう見ているかが
赤裸々に語られ
誰もがこころをえぐられていく。
人と争うことは
感情をむき出して
お互いのこころを傷つけることになる。
例え
法的に勝っても、負けても
争ったことの犠牲は大きいことを
教えてくれた映画だった。
前後際断
道元禅師が遺した言葉です。
薪は燃えて灰になります。
ですから灰は、薪が燃え尽きた先の
姿であると普通は考えます。が、
道元禅師はそうではないと仰るのです。
薪は薪で絶対の姿
灰は灰で絶対の姿である。
薪と灰は連続した繋がった姿と
普通は考えますが
道元禅師は、
薪も灰もそれぞれ切り離した姿として
考えなさいと言ってるのです。(際断)
実は生、死も同様なんです。
生の延長線上に死があるのではなく
生と死はそれぞれで絶対の姿で有る
というのです。
生と死を切り離して考えると
少し生き方も変わってきそうですね。
少食の効用
ひもじさを経験すると
さまざまなよい変化が実感できると
いう僧侶の話を紹介しましょう。
食事をすると
食べ物を消化するために
消化管では多くの血液が必要です。
消化管に多くの血液が流れていくと
脳にいく血液量が減ってしまいます。
すると脳の機能が低下します。
だから
食後眠くなるのは、このためです。
逆に考えれば
空腹に感じている時は
脳には必要な分以上の血液を
使うことが出来るので
脳の活動は活発になり
頭はスッキリ冴えていると感じることでしょう。
そして、もう一ついい点があります。
肉や魚などの動物性タンパクをたらず
香辛料などの刺激物を使わずに
いわゆる精進料理を食べていると
からだに入ってくる毒物の量がへるために
肌からのデトックスもへルため
肌が透き通って来るかもしれません。
おなかが少し減ったくらいで過ごす方が
いいことは多いのかもしれません。
臨済四喝
禅道場では
叱咤激励するために喝をいれる
ことはよく経験されます。
喝には四つの意味があると
臨済禅師は教えています。
①金剛王宝剣の如く
②踞地(こじ)金毛の獅子の如く
③探竿影草(たんかんようぞう)の如く
④一喝の用(ゆう)を作(な)さず
金剛王宝剣は
どんなものも一刀両断してしまう名刀です。
この名刀のように迷いや執着、
我欲や妄想などの煩悩、また
善悪や美醜という風に
ものごとを二元論的にとらえる分別を断ち切ってしまうこと。
踞地は大地にうずくまること。
大地にうずくまって獲物を狙っている獅子のように
胆を縮みあがらせ
思い上がりや傲岸さを紛糾する喝。
探竿影草は
草の下に魚がいるかどうかを
竿で探るということ。
つまり、相手の力量を探り、はかる喝です。
一喝の用を作さずは
喝の働きをしないこと。
その意味は、他の三つの喝の本源であり
しかも、三つの喝を飲み込んでしまうような喝。
つまり、先の三つのように
「~する(ための)喝」というところを超越した
喝といっていえるでしょう。