真実の医療」カテゴリーアーカイブ

医療に必要なのは真実の愛

医療は
患者さんの痛みや苦しみをとってあげるのが
使命である。
そのために医薬品を武器として
病に立ち向かっている。

しかし治療で使われる医薬品は
全て化学薬品で
その標的は症状であり
症状のみは改善するが
有る部分には毒物として
働いてしまうこともあり
次から次に薬が増えてしまうこともあります。

医療を行うためには
絶対「愛」が必要です。
愛がなければ医療は成立しません。

しかし
世の中には愛があふれています。
いえ、愛という言葉があふれています。
男も女も
老いも若きも簡単に愛を語り
現代人はあまりにも簡単に愛を語りすぎて
真実の愛を忘れかけている気がします。

現代に生きる医者だって同じ。
愛というものを曲解していないでしょうか?
エゴを満たしてくれるのが愛
同情や哀れみをかけてくれる物に対して感じるのが
愛だと誤解していませんか?

確かに相手に寄り添うのは大事だけど
寄り添うことだけが
真実の愛だとは僕は思わない。

現代の医療現場でも
真実の愛と偽りの愛をりようしてるのでは?
と思うことがある。
患者さんが痛みを訴えれば鎮痛剤を与え
熱が出たからといって解熱剤を与え
それを与えることで
熱や痛みをくり返したとしても
熱や痛みを取りさえすれば
逆に怖ろしい副作用が起こるきっかけになったとしても
患者さんが望んでたことなので
それでいいのだと
自分に言い聞かせながら
診療をおこなってはいけないのだと思う。

患者さんに痛みをとるだけでなく
なぜ今この痛みが起こったのか?
なぜ熱が出たかの理由や意味を考えて
病気の原因を生活様式から、すなわち生き方から考え
今後二度とこの苦しみが起きないようにするのが
真実の愛に生きる医師の道ではないだろうかと
最近つくづく思うのです。

僕は真実の愛に生きる
医師でありたいと思います。

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死に対する私考

生まれたものは
必ず死の瞬間を迎える。
誰もが経験することだけど
その経験を後から
語ることはできないので
死について語るのは難しく
特に現代医学では
死を迎えることは
ある意味敗北をも意味するので
真正面からとらえず
タブー視している感じがする。

そもそも
僕は死は終わりではないと
考えている。

人々が死を怖れるのは
今あるすべてのものを失ってしまう
死んだ後どうなるかわからない
死んだら全てが終わりと考えるからだろう。

死んだ後
生きてきた地球とは異なる
新しい世界に行くのだと思えば
死に対する恐怖は
少しは和らぐのではないか?

僕は
死んだ後の世界のことは
もちろんわからないが
死で終わるのではなく
死によって新しい心身に生まれ変わり
新しい世界があるのではないかと
最近の臨死体験の人の語るのを聞く機会が
日に日に二増えるに従って
思うようになってきた。

その考えを知るにつけて
死は決して否定的なものではないと
考えるようになってきた。

そうであるならば
我々は今どうして生きているのか?
その意味を考えることが大事なんだと思う。

死を怖れずに
今を生ききること。
この世を生ききったことで
わかる世界が
きっと死後の世界なんだと思うのです。

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病気はからだからのメッセージ

毎日、色んなからだの不調を訴えて
患者さんが来院されます。
悩みも様々、病気も様々で
病名は同じでも
病気のの原因はひとりひとり
異なるような気がします。

例えば
外反母趾であれば
足の親指は
1歩踏み出す呼気
前進するときに力が入る部分です。
その部分が曲がるのが
外反母趾なので
その部分に不調をきたすと言うことは
欲求不満や、ぐっと飲み込んでいるものを
表していると思うのです。

また女性に多い便秘は
次のようにも考えられます。

腸の粘膜は
口から連続して通じています。
腸粘膜は
からだの中にありながら「外界」です。
つまり腸の上皮細胞は
外界と体内の境界線を作っているわけです。

便秘がちの人は
外界と体内の境界線である
上皮細胞の新陳代謝が鈍っていることが
原因に多いような気がします。
また精神的には
「自分を変化させないようにするクセがある」
「感情移入しやすい」あるいは
「自分の本心がわかっていない」などの
傾向があり
「あとでたる」「そのうちに」「今度」「いつか」という
言葉が口癖になっていませんか?

逆に下痢の場合は
外で怒ってる様々なことに
恐れを感じて、
自分でしょうかすることなく
どんどん流しているのです。

症状があるとき
その症状を止めるだけでなく
その症状がなぜ起こったかという
本当の原因を見つけるのが
僕たち医者の仕事だと思うのです。

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慈悲のこころで生きたマザーテレサ

聖人といわれる方は
キリスト、お釈迦様、ムハンマド、孔子に
代表される4大聖人から
数多くの聖人といわれる方が
いらっしゃいます。

しかし
ほとんどの聖人は
されたことは伝説のような話に
なっています。
しかし、現代にも聖人はいらして
その中のひとりにマザーテレサがいらっしゃいます。

実は
僕は小学生の時に
学校にマザーテレサがお見えになられた
お話を聞いたことが有るのですが
あまりにこどもで
マザーテレサのすごさなど全くわからず
こんなシワシワな小さなおばあさんに
なんでみんな大騒ぎするのだろうと
でも
何だかその小さなからだから
輝くパワーをこどもながら感じたのは
今も覚えています。

おとなになって
マザーテレサの話を知るにつけて
マザーテレサの偉大さにふれ
マザーテレサと同じ空間にいた記憶だけでも
今の僕に影響を受けている気がします。

マザーテレサは
やはり慈悲のこころを実践されたから
偉大なんだと思います。

慈悲という言葉は
仏教語で
慈無良心(楽しみを与える)と
悲無良心(苦を抜いてあげる)から来ています。

これを施し
自分の虚しさから解脱するために
お釈迦様は3つの法を解いています。

①財施:困っている人に食べ物、薬、お金
どんな小さなものでも差し上げなさい
②法施:こころの貧しい人、こころの飢えた人
人の世の道を知らない人に
法を説いてあげなさい
③無畏施:身寄りのないお年寄り、
ひとりで死を畏れている人、
自信を失い、劣等感に悩まされている人
そういう人たちを勇気づけてあげなさい。

このお釈迦様の説いた慈悲のこころの実践を
生涯にわたっておこなった
マザーテレサは聖人なんだと
納得したしだいです。

マザーテレサのように生きられないかもだけど
マザーテレサをお手本にして
生きていきたいと思います。

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生命エネルギーの中で生かされている

我々は肉体をもって
この世を生きています。

そして
何か不調を感じたり
病気になったときには
この肉体のどこかに悪いところがあるはずだと
血液検査をしたり、画像検査をして
肉体の悪いところを見つけ
その悪いところを治すのが
今の王道の医療でしょう。

でも
最近は社会や人の生き方も複雑化してくると
そこだけ治せば治るというものでもなく
不調の状態が続き
病に悩まされる人が増えてきています。

僕も医者になって30年になりますが
日々、その様な方が増えている気がします。
そして
なぜ、そうなのかはわからないけど
今の不調に蓋をするように
避けてはいけない。
今の不調をそのまま素直に受け入れ
今の医療とは異なる
別視点でみる必要があるという思いが
強くなりました。

毎日多くの患者さんを
診させていただいていますが
心臓を動かし、呼吸し
生きているのは
血液検査やレントゲンでは
推し量ることができない力
があるから
僕たちは生き続けることが出来るのだと
言うことを確信するようになりました。

人間は肉体だけでなく
エネルギーとの関わりがあるから
生きていることが出来るのです。

ですから
不調を感じるときに
エネルギーの流れを診ることが必要なのです。

エネルギーをコントロールするのは
僕たちのもっている思いです。

ですから
病気になったとき
嫌だな、病気になったらおしまいだなど
否定的な感情にあふれてしまうことでしょう。

この否定的な感情が
エネルギーの流れを滞らせてしまいます。
ですから病気になったときは
流れを変えるチャンスになるのです。
病気になったらおしまいだと考えるのではなく
自分が変われるチャンス
これを機会に飛躍できるのだと思うことで
エネルギーの流れを良くすることが出来ます。

病気にときこそ
エネルギーの流れを変える好機だと
自分の思いを変えるきっかけにしましょう。

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生と死は別々にあるのではない

生に関わる仕事をしていると
生と対極にある死について
考えないわけにはいけない。

生きることを考えると
死について考え
死について考えると
生について考え
死の先にあるものを考えると
今生きている世界と
異なる世界があるような気がして
生と死を巡る考えが
からだ全体をそして
目を閉じても
有るかわからないけど
有るはずだと思える世界に
誘っていく。

生と死の関係に答えが見つけるのが
僕の永遠の課題のような気がする、
今生きている内に
答えは見つけられるだろうか?

そんな時
その答えを見つけるヒントに
なりそうな詩に出会った。

カリール・ジフラン作

死について
あなた方は死の秘密を
知りたがる。
だが、生そのもののなかに
それを探し求めなければ
どのようにして死について
知ることが出来るだろうか?

夜でも目が見えるのに
昼間は目の見えないふくろうには
光の謎を解くことはできない。

本当に
死の魂を見たいのなら
生きている肉体をよく見てご覧なさい。
なぜなら
ちょうど川に海が
ひとつつながりで有るように
生と死は一つだから

そうなのだ
生と死は別々ではない
生も死もひとつなのだ
だから、知らない死を考えることではなく
死は
今を一生懸命生きた生の中に
その答えがあるはずなのだ。

だから
日々一生懸命生きていくことが
大事なのです

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闇の時代を生き抜く

最近のニュースは
ロシアとウクライナを舞台の悲劇、
無責任経営による知床観光船沈没、
日常からコロナウイルスのことが
頭から離れない生活
極端な円安、幼稚な日本の政治家集団、etc. 、
悲しいニュースばかり。

ニュースを聞くたびに
こころの中がかき乱されるのは
僕だけだろうか?

ニュースの全てが
全て真実とは限らないから
不安な気持ちを少しでも沈めようと
真実に近づこうと
インターネットで検索してしまう。
でも真実の解決には至らない。

ニュースでこころ荒れた時は
テレビを見ないにかぎる。
でもあちこちから情報は耳に入ってきてしまう。

一体どうしたものか?
情報化社会の現代に暮らす
困難さを感じてしまう。

情報に振り回されないためには
世界を知って、
世界を知らないでいることでは
ないだろうか?

情報化時代の現代では
どれだけ「知らない」部分を
心の中に確保できるか、
それが重要となるのだと思う。

それを西田幾多郎
は「絶対矛盾の自己同一」と言った。
お経には、
「色即是空」と書かれている。

これは決して
事実から目を背けるのではなく、
事実の向こうにある
真実を見る目が必要だということ。

今は、
そういう汚辱の時代なのだ。
汚泥から蓮の華が咲くのを待とう。
闇の時代には、
自分が今、出来ることに
誠実に向き合うしかない。

光は、そこにある
未来への不安も要らない。
自信をもって、
今やっていることに打ち込むだけだ。
そこに救いあがあるのだと思う。

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合掌は一番美しい姿

人は
自分の意志を伝えるのに
言葉を使いますが
言葉だけでなく
からだ全体、その姿で
語りかけることがあります。

その人の姿を見るだけで
語ることがあります。

僕が
姿が美しいと感じるだけでなく
強いメッセージを
感じる姿。
それは、合掌する姿です。

合掌している姿は
一番美しいので
仏様が美しく感じるのも
頷けます。

合掌している姿を見ると
和やかな気持ちになります。
合掌している姿は
いかにも
見もこころもあなたに捧げます。
どうか救ってくださいと
手を合わせた相手に
身も心も捧げた慈悲の姿に見えるのです。

合掌するだけで
自然に自分のこころも和らぎ
相手のこころも和らぐから不思議です。

インドでは
左手は不浄とされているようで
右手を合わせることで
左手を浄める意味も有るようです。

合掌すると
実際手が出せないので
武器も持てません。
相手を攻撃することも出来ません。
杯ももてません
タバコも吸えませんよね。
つまり
合掌すると悪いことはなにも出来ません。

あなたのために
私は生きていくというメッセージを
込めているように思えるのです。

合掌
この美しい姿を
大事に生きていくことが
またこの世を浄化させると思います。

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「喜」と「楽」の違い

地球上の生物の中で
人は豊かな感情を持っていて
その感情が行動の基盤になっています。

感情は大きく4つ
喜怒哀楽に分けられます。
「喜」はこころの底から喜ぶこと
共感できること
「怒」義憤にかられること
それはないよと思ってしまう。
「哀」頬に涙が伝うこと
人間だけがもっている感情、憐憫
「楽」人を喜ばすこと。

楽と喜ぶの違いってなんでしょうか?
結果を喜んでいる姿は
楽と喜ぶの同じだと思います。
違うのは自分の視線の先に
人が居るってことなんです。
誰が喜んでいるのか?

「楽」という字は象形文字で
手に持ってならす鈴が字源になっています。
昔の人は
鈴をもって歌い、踊り
神様を喜ばせていたのではないでしょうか?
神様に喜んでもらう踊りを
「神楽」と言いますよね。

つまり
楽とは自分が楽しむのではなく
神様を喜ばす行為
そして
目の前にいる人を喜ばす、楽しませること
を楽というのではないでしょうか。

つまり
周りの人を笑顔にすることだ。
周りの人が笑顔になれば
間違いなく平和が訪れますよね。

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死にとうない

死んだらどうなるか?なんて
誰もわからない。
最後の時を迎えたとき
どんな境地でいたいのか・・・って
自分はどう居たいかは
自分で決められる。

偉人達が最後の言葉が
記録されています。
そのひと言に
その人の人生がぎゅっと詰まってるような
気がします。

例えば
とんちで有名な一休さんは

「有瀘路より無瀘路に帰る
一休み
雨降れば降れ
風吹けば吹け」

という生きている心情を
表した言葉が残っています。

この意味は
有瀘路は煩悩にあふれる世界のこと
無瀘路は煩悩がない世界のこと。

つまり
今生きているこの世界は
煩悩だらけの世界と
仏様のいらっしゃる煩悩のない世界を
行き来しながら
現世では一休みをしている。
だから
雨が降ろうと風が吹こうと
かまわないのだ。

という生き方を実践し
この言葉から
一休という名前をつけたという。

しかし
一休さんはこうは言っても
とても感情的には熱い人で
煩悩にこころの中に一途な気持ちをもっていて
何度も自殺未遂を起こしたのも
みなが知るところ。

そんな熱い心で生きた一休さんの晩年は
30才以上年齢が離れた若い盲目の森侍者と出会い
87才で生涯を終えるまで共にしました。

そんな一休さんの最後の言葉は
「死にとうない」だったとのこと。

このひと言で
愛に満ちあふれた気持ちで
無瀘路の世界に旅立たれたのですね。
愛する人に見送られながら。

サンタブログ20220517

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