「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
戦争をしないために
日本人の祖先
縄文人は戦争をしなかった民族であったと
その生活してきた発掘後から
戦争した痕跡から
想像されています。
そして縄文人だけでなく
アイヌ人も2000年も戦争しなかったことが
わかっています。
アイヌ人が戦争しなかったのには
3つの理由があるとも言われています。
第1の理由は、人格が高かったから。
なぜなら、人は悪いことをしようか
それとも正しいことをしようかと迷った時
その最後の決断をするのは
その人の最後持っている人格によって
判断されるというのです。
人を殺すのも
人からものを奪うのも悪いこと
だから、戦争はしないのです。
第2の理由は
「交易の民」だったからだとも言われています。
交易とは基本、物物交換なので
他人の物がほしければ、
同等の価値のある自分の物と交換する
というスタンスだと言うこと。
だから、力ずくで他人の物を自分のものにするという
略奪行為、戦争は起こらないと言うことです。
第3の理由は
アイヌ人は言葉を尊重し
話し合いを大切にした民族だとも言われています。
また、アイヌ人は
文字を持たなかったので
話す言葉を大切にしていたのです。
それは
言葉を文字にするとこころを失うとも
考えていたので
手紙ではなく
面と向かって誠のこころを
自分の言葉で伝えたので
争いことにならなかったのかもしれません。
現代人もアイヌ人に学ばなければ
ならない点はあるのでしょう。
令和は原点回帰の時代
以前、よく
日本医療催眠学会に参加していました。
この学会は、
人の心そして意識の持ちようが
人のからだにどのように影響しているか
を学べるので毎回とても勉強になる学会です。
この学会で
ベストセラー作家でもあり
カウンセラーの
おのころ心平さんの講演。
令和の時代はどんな時代か?
東洋思想の陰陽五行にあてはめると
明治、大正、昭和、平成、令和と
明治の”木”から始まった時代が一巡し
令和は、水の時代、冬の時代、腎臓の時代に
入ったことになります
陰陽五行からみると
令和は
原点に戻る、原点回帰の時代になるのです。
明治から始まった近代文明が
昭和、平成には多岐にわたり様々なものが
あふれてしまい
令和の時代になって
腎臓が体内で行なっているように
あふれた情報、知識、技術などの
本当のよいところ悪いところを振り分け
優れたところをシンプルに取り入れ
品質高く生きる時代になるのです。
だから、令和は多くのことが
取捨選択され
断捨離され
そして
腎臓が働くように
あらゆるものが
浄化していく時代に入ったと言えるのです。
本当の豊かさとは何か?
本当の健康とは何か?
その本質を求めていく
まさに原点回帰する時代に
なっていくのだと思います
何が大事であるかを知り
本質を捉えるための
2つの方法が提唱されました。
1つはリフレーミングという
現在の常識と言う枠に囚われず考えること
もう一つはバード・アイ
上空から鳥がみるように
高い視点から全体を見渡して
今の自分の立ち位置を考えてみること。
視点が変わるとわかることがある
禁煙ができないのは
ダイエットができないのは
たばこが、食べ過ぎが悪いのはわかっている
でも、できないのは
たばこが、今食べることが必要だから。
一緒になぜ必要と思っているのか?
そして
その原因を
リフレーミングの観点から
バード・アイズの視点から
共に考えると
きっと前に進める観点が浮かび上がる。
そうやって、双方で考えていくことが
寄り添うと言うことなんだろう。
そして
こんなことも言われた
ガリレオ・カリレイが唱えた地動説
地球を含めた惑星が
太陽の周りを回っているのは
今は常識だけど
太陽も動いてらせん状に公転している
と言う説があるんです。
これって真実と思いますか?
現在の情報にあふれた世界から
真実を見抜く目を持つことが
令和のの時代を生き抜くために大事だと
教えられた
おのころ心平先生の講演でした。
大哲学者が考えたしあわせになる方法とは
どうしたら、しあわせに生きていくために
人は生きている。
多くの人は
その答えがわからないから
不幸な人生を送っていると思っている人も
少なくはないだろう。
この問いに対して
答えを出した人がいる。
2500年前に生まれたお釈迦様も
2000年前に生まれたイエス・キリストも
そして、ソクラテスも孔子も
この問いに対する答えを出している。
そして彼ら大哲学者のだした答えは
同じことを言っている気がします。
まずは人生に目的はないということ。
人は頭脳明晰な生物であるから
答えのない人生の目的を探そうとするから
逆に不幸になってしまうというのです。
次に自分のことを第1ににした人生はさみしい。
人間は集団の中で生きている。
だから自分が生きていけるのは
集団の人々のおかげです。
だから、自分第1を考えて生きていくことは
できない。
そんな人生はさみしく、虚しいのです。
そして最後は
貧乏や病気は幸福になるチャンスが多い
のです。
しあわせになる方法
誰もが同じことを
くり返して言ってますが
わかっているようで
この数千年かけても出来ない
ことなのでしょう。
希望が叶う魔法の杖
おとなもこどもでも
誰もが
「希望が叶う魔法の杖」を
みんな持っています。
みんなの希望を叶えて
しあわせな世界を実現するために
お伝えしようと思います。
願いを叶える第1段階は
①願い事を叶えたいと思うこと。
②願いごとを叶うと信じること。
なんかそんなの
当たり前じゃないかという声が
聞こえてきそうだけど
当たり前ですか?
願いを叶えたいと口では言っても
本音は
こんな願いは叶うわけはないと
最初から諦めていませんか?
まずは、
最初は自分自身がどれだけ
その願いを叶えたいと強い思いを
持っているかが大事だということです。
あなたが願いを叶えたいと強く願いたいと
強く、強く思うなら
その願いは向こうから近づいてくるのです。
ですから、次には
③向こうから来るものを拒まない
ことです。
あなたの思いを叶えようと
あなたの周りの全てが協力している
あなたの願いを叶えるために
あなたの世界が回り出しているのです。
全てが願いを叶える魔法が動き出したのですから
その魔法の全てを受け取るのです。
これが魔法の3つめの杖です。
そして
全てを受け取っていると
自分が変わって言ってることに気づくでしょう。
昨日の自分と
今日の自分が違っていることに
気がつくでしょう。
そして
あなたの願いが
あなたがなりたい自分になっていることに気づくでしょう。
つまり、願いは
④願いとは自分でできること
⑤願いとは将来でなく今日のこと
だと気づき
世界がしあわせな世界に変わっているでしょう。
対立と衝突
生きていると
自分の考えと合わずに
人とぶつかることは
よく経験することでしょう。
人とぶつかった時の言葉として
「対立」と「衝突」するという言葉があります。
どちらであっても
出来るなら避けたいと思うかもしれませんが
対立と衝突は
似ている言葉ですが
大きなちがいがあります。
「対立」はある意味あるべき姿を追求し合った時に
生まれるのですが
「衝突」はぶつかり合う意義がある
勝たないといけない時に時にしか
仕掛けてはいけないものです。
対立しあうことで
いいものが生まれる可能性はあります。
逆に衝突は戦争などの時のように
お互い傷つけ合うまで行ってしまうからです。
誰かと
問題が起こった時には
感情的にならず、冷静に
問題の根本を考えていかないと行けないのです
自分との約束を守る
やってはいけないことって
世の中にたくさんあるけど
どんなことがあっても
やってもらいたくないことがある。
それは
自分にうそをつくこと
自分にうそをつかない方法って
色々あると思うけど
まずやってもらいたいのは
”自分の決めた約束を守ること”
自分との約束って
例えば
朝6時に起きる、帰ったらすぐ宿題をする
寝る前に明日の準備をする
お友達と仲良くする
・・・・
その約束はどんなことでもいい。
でも、どんな約束であっても
自分とした約束は絶対守ることが大事。
どうして、自分との約束が大事か?
自分との約束を守るということは
自分自身に勝つということ。
己に勝つことができれば
相手がどんなすごい人であっても勝つことができる。
自分の心さえ操れない人が
いつも妥協している人が
他の人に勝つことができますか?
”自分への一敗は
世界すべての全敗に等しい”と
おっしゃる方もいます。
自分との約束が果たせないって
とても大変なことなんですね。
最近自分とどんな約束をしましたか?
その約束は守れましたか?
日々、チェックしていて下さい。
誰もチェックはしてくれません
自分自身で、正直にチェックしてみて下さい。
自分を守れるのは
自分しかいません。
自分自身を裏切ってはいけません。
自分自身の約束を
やり切ることが
まず最初にすること。
その自分との約束を
いくつも重ねていけば
やがて
習慣になり
己の成功へと続くのだと思います。
「苦しい」の本当の意味
お釈迦様は、「生老病死」を四苦、
生きることに伴う四つの苦しみだと言われました。
ここでいう「苦しみ」は
「苦しい」ということではい
思い通りにならないことを
思い通りにしようとすることだと知りました。
人は思い通りにしよう、したいと思っても
思い通りにならないこと
苦しみになるというのです。
生きることも、老いることも
病気になった時も、死ぬ時も
自分の思い通りには
決してなりません。
だから、苦しいのです。
ですから、思い通りにならないことを
手放せば
その苦しみはなくなるということです。
渇愛
人はその日の気分で
日々左右されています。
例えば雨が降る、降らないでも
人の感じ方はそれぞれです。
水不足を心配した人なら、
久しぶりの雨を“よかった”
と思うでしょうし、
レジャーを予定していた人にとっては、
冷たい雨を“残念だ”
と思うことでしょう。
実は、
この雨の良し悪しを決めているのは
自分自身。
自分たちの都合によって、
良し悪しのレッテルを
張っているのです。
例えば、雨の予報だったので、
雨具の準備をしていたのに、
雨が降らなかったら、
少し肩透かしを食らったかのように、
雨が降らなかったことを
残念に思ったりしませんか?
雨は望んでいなかったのに、
雨の対策を打った時点で
ひそかに雨を望んでいた
のかもしれません。
雨が降るという天気に
悪気はありません。
感情もありません。
雨が降ることに対して
良し悪しと判断しているのは
自分自身。
そして、そのレッテルを張っているのは、
自分の脳です。
実は脳は、
ありのままの世界を
認識しているわけではなくて、
自己中心的な思惑によって、
世界をゆがめて認識をしています。
この自己中心的な思惑を
仏教では“渇愛(かつあい”と言うそうです。
元々嫌だと思っていたものを、
ひそかに望むようにゆがめてしまう。
その世界を作り出しているのが、
自分自身、自分の脳です。
実は私達の感情は、
自分の脳の“渇愛”という
わがままさんに振り回されて
いるのです。
ですから、
雨なら雨を、
晴れなら晴れを、
ありのままをありのままに
受け入れることができたら、
毎日が生きやすくなるんでしょうね。
落下の解剖学
という映画を観た。
この映画は
人があまり訪れない山荘で起こった
この住人の夫が
落下死亡事件に対して行われた裁判。
この事件
目撃者は夫婦と視覚障害のある息子、盲導犬
しかいない。
目撃者も、物的証拠も少ない中の裁判。
事故だと訴える奥さん
奥さんが犯人だと主張する検察側。
目撃者もなく
物的証拠も少ない中
人の意見や録音されたものなど
数少ないもので
人々の憶測で組み立てられた
話が法廷で
真実かのように語られる。
事実はひとつでも
同じひとつでも
人はどう考えて、どう見ているかが
赤裸々に語られ
誰もがこころをえぐられていく。
人と争うことは
感情をむき出して
お互いのこころを傷つけることになる。
例え
法的に勝っても、負けても
争ったことの犠牲は大きいことを
教えてくれた映画だった。