「今日の言葉」カテゴリーアーカイブ
前後際断
道元禅師が遺した言葉です。
薪は燃えて灰になります。
ですから灰は、薪が燃え尽きた先の
姿であると普通は考えます。が、
道元禅師はそうではないと仰るのです。
薪は薪で絶対の姿
灰は灰で絶対の姿である。
薪と灰は連続した繋がった姿と
普通は考えますが
道元禅師は、
薪も灰もそれぞれ切り離した姿として
考えなさいと言ってるのです。(際断)
実は生、死も同様なんです。
生の延長線上に死があるのではなく
生と死はそれぞれで絶対の姿で有る
というのです。
生と死を切り離して考えると
少し生き方も変わってきそうですね。
臨済四喝
禅道場では
叱咤激励するために喝をいれる
ことはよく経験されます。
喝には四つの意味があると
臨済禅師は教えています。
①金剛王宝剣の如く
②踞地(こじ)金毛の獅子の如く
③探竿影草(たんかんようぞう)の如く
④一喝の用(ゆう)を作(な)さず
金剛王宝剣は
どんなものも一刀両断してしまう名刀です。
この名刀のように迷いや執着、
我欲や妄想などの煩悩、また
善悪や美醜という風に
ものごとを二元論的にとらえる分別を断ち切ってしまうこと。
踞地は大地にうずくまること。
大地にうずくまって獲物を狙っている獅子のように
胆を縮みあがらせ
思い上がりや傲岸さを紛糾する喝。
探竿影草は
草の下に魚がいるかどうかを
竿で探るということ。
つまり、相手の力量を探り、はかる喝です。
一喝の用を作さずは
喝の働きをしないこと。
その意味は、他の三つの喝の本源であり
しかも、三つの喝を飲み込んでしまうような喝。
つまり、先の三つのように
「~する(ための)喝」というところを超越した
喝といっていえるでしょう。
即今、当処、自己
いま、その瞬間に、その場所で
自分が成すべきことをやっていくことが
大切なのだという禅語です。
どんな人にもそのとき
その場所で成すべきことがあります。
そのことを、意欲をもって、しっかりやっていく。
それが生きると言うことの基本です。
のんべんだらりと日々を送ったのでは
何も得ることはありません。
そして、折角頂いたいのちを粗末にして生きる
ことになってしまいます。
そして今を大切に生きることで
なすべきことをやるということに集中し
結果に拘泥しないということなのです。
仕事をする時も
目の前の仕事に集中し
全力で取り組み
その仕事に対して、あなた以外の人が
評価するかどうかにこだわらず
取り組むことが大事だと言うことを
教えてくれている言葉です。
「いいね」の数では測れない人生を生きよう(本日休診です)
☆ 9/17(火)~9/21(土)夏季休暇のため休診です。
ご迷惑をおかけしますが、ご了解ください。
社会の中で生きている限り、悩みは、同僚や友人との比較から生じます。
「あの人はできるのになぜ自分はできないのだろう」と
我が身を嘆くようになるのです。
自分にないものを持っている人、
自分ができないことができる人を
”いいね”とうらやましく思うのは、自然な感情だと思います。
しかし、その先にあるのは
羨望、嫉妬、嫉みなどの負の感情が生まれ、
その感情がみなさんを悩ませ、
生きにくくしていくことだってあるのです。
みなさんは比較する世界からの脱却ができて、
初めて一人一人の人生を進めることができるのです。
みなさんは生まれつき素晴らしいものを持っています。
みなさんの能力、学力も地位も貧富も
自分以外の人と比較することで生じた相対的評価であって、
あなた自身の絶対的評価でないことを知って、
胸をはって、自信をもって、
自分らしく生きて今日を生きていきましょう。
眼横鼻直(がんのうびちょく)
眼は横に、鼻は縦についています。
これは、きわめて当たり前のことです。
しかし、この当たり前のことを
成しているのは誰なのでしょう。
親でもなく
もちろん自分自身でもありません。
人知を超えた大いなる力の仕業です。
別の言い方をすれば
大いなる力によって
そのように授けられたのです。
そうであるならば
そのあるがままをありのままに、ありがたく
受け取ればいいことを
この言葉は教えてくれているのです。
ちなみに、道元禅師の言葉と言われています。
諸法実相
諸法というものは
存在する全てのもののことです。
自然の山や川、木や花はもちろん
人間も諸法に含まれます。
それらは悉く実相、つまり真実の姿
真理であるというのです。
至る所に真実の姿、真理があるのだから
それに気づく機会もふんだんにあるのです。
たとえば、花は時を得て咲き、また、
時を得て散ります。
そこには何の計らいもありません。
人知を超えた大いなる力が
そうさせているとしか考えようがないのです。
そのことを仏の徳ともとらえられます。
この徳はあらゆる存在に行き渡っています。
全てのものに行き渡っている徳、真理に気づきます。
そのようにしてひとつずつ
この世に満ち満ちている真理に気づくことも
小さな悟りと言えるのでしょう。
母親の子育てと父親の子育てのちがい
母親と父親の子育ては
本能的にかどうかでは定かではないのですが
生物学的な考え方が違うような
気がします。
母親はこどもを「弱者」と考えて過ごします。
それは、生まれるまで
体内でこどもの生育を育んできたという
歴史がそうさせるのでしょう。
ですから
こどもが生まれてからも
10ヶ月間育んできたこどもの思いから
「この尊くか弱いいのちを
生き延ばらせるために、守ろうとするのでしょう。
ですから、母親は
普通に成長するために力を尽くすのです。
これに対して、父親は。
生まれた時のこどものか弱さに触れた瞬間
この子を守ろうと決意するのは
母親と同じでしょう。
こどもはか弱い存在だからこそ
この集団で生き残りためには
相対的に強者として生き残らせないといけない。
勝ち残って行く術を
伝えないといけないと思うのです。
これが父親と母親の子育てに対する
大きなちがいはあるとしても
父親に母親的育児の思いがかけてるわけではなく
母親も同様に
父親的な面も持っているのです。
ですから
子育てには
母親的育児、父親的育児
どちらも必要だということでしょう。
「看」の字の語源
看護の「看」の字を見ると
手と目というふたつの字を
組み合わせて出来ていることがわかります。
その語源を調べると
やめる人の容体を
手をかざすようにして
目でもよく確かめてみるという
意味になるのです。
つまり
患者さんをよく観察し
見守ることが
看護の真の姿であると
考えられます。
これは看護士だけでなく
医師にも伝わるこころのひとつで
患者さんの容体を充分に把握した上で
次の段階として
病んでいる人のこころとからだを守ることなのだと
この字が教えてくれます。
一つ目小僧が一つ目なのは
「ゲゲゲの鬼太郎」などの
妖怪漫画を多く遺している
水木しげる氏の短編漫画「一つ目小僧」に
次のような科白があります。
「猫や犬も人間ほど
心配してはいないようすなのは・・・」
「人間には目がふたつあるので
未来と過去を考えて心配が絶えないが
一つ目小僧は
こどものように今しか見えないから
苦労がない」というのです。
年取って
視力が落ちたり
耳が遠くなるのは
いく末を案じて不安にならないように
周りが見えすぎないように
目の前のことに集中できるような
からだの計らいなのかもしれません。
年取って
認知症になるのも
こどもや犬猫のように
いましかなくなるので
わずわさも消しさってしまうためかもしれません。
もしかして
認知症は病気と考えるのではなく
自然の恵みなのかもしれません。
武士も大切にした神様を敬う精神
「神は人の敬いに依りて威を増し
人は神の徳に依りて運を添う」
これは、武士の政権の最初の法律
「御成敗式目」の第一条。
鎌倉幕府が
大事にしていたのは
「神様を敬う精神」だったことが
わかります。
武士の神様を敬うほどに力が増し
神様の力で運もよくなると
考えていたのでしょう。
また武士の世の中を生きると言うことは
自分のいのちが
明日にはどうなるか
わからないという
時代背景もあるから
明日はどうなるかわからないから
少しでも長くそしてよく生きられるように
神様を敬ったのでしょう。
現代にいきる自分も
武士の時代のように
理不尽なかたちで
いのちが終わることは少ないけど
まったくないわけではない。
だから
現代に生きる我々も
神を敬って生きていくのがいいのでしょう。