「真実の医療」カテゴリーアーカイブ
真心を持って生きる
生きていくために
何かひとつをこころに留めて
生きていこうとするのだったら
それは、真心を持って生きていく
ことになります。
真心を意識していると
人と接する時には
相手の気持ちを持って言葉を選ぶようになります。
だから相手を傷つけることも言わないし
人間関係でトラブルに巻き込まれることも
少なくなるでしょう。
真心を持って生きていれば
誰かに意地悪なことをすることもなく
人を蹴落とそうなどという
考え浮かばないはず。
そうすれば
パワハラ、セクハラ、マタハラ、カスハラなど
次々出てくる○○ハラスメントなんて
無縁で生きることができでしょう。
仕事をする時も
家族に対してであっても
真心を持って接すれば
文句を行くこともなくなるし
サボろうなんて考えもうかばず
こころを込めて毎日一生懸命
生きることができるはずです。
真心を込めて生きることは
自分以外の人に対してベストな対応ができるので
自分が気持ちいい方向に運んでくれます。
己の魂に近づくのは
「病人は健康な人よりも
己の魂により近く迫るものだ」
これはフランスの文学者プルーストの
言葉です。
僕は病気をして
本当にその通りだと思います。
健康の時は
やるべきことが多くて
多くの人に気を配らなくてはなりません。
だから
自分と向き合う時間は少ないもの。
病気になると
自分がこんな状況になってしまい
自分以外の人のことを
見れる状況ではなくなります。
そして
その代わり、自分自身に向き合う時間が
増えてくるのです。
自分と向き合い
自分自身と語り合うことで
気がつくことがあります。
自分自身が何を大切にしないといけないもの
これからどう生きていくか
どうして生まれてきたか?
どんどん自分自身を深掘りしていきます。
そしてたどり着くのが
己の魂の存在と言うことでしょう。
ほとんどよくなっている
「その後どうですか?」と聞くと
「だいぶんいいです」とか
「ほとんどいいです」と言われると
とても申し訳ない気持ちになる。
なぜなら
「ほとんど」といわれると
よくなってない部分があると言うこと
気になっている部分があることが
クローズアップされてる気がして
気になって仕方なくなる。
医者として
もっとその患者さんに
尽くさないとという気になる。
完全に治ってもらいたい。
病気の治療に医者に遠慮なんていらない。
諦めないで治してもらいたい。
コーカサス地方の人々が長寿なのは?
長寿の人たちの暮らし方を研究することで
長寿の秘密を探ろうとする。
代表的な長寿国(地方)は
日本、地中海、そしてコーカサス地方は
よく研究され
和食が注目されたり
オリーブオイルがいいなどと言われてきた。
それも一理あるだろうけど
食事だけが全てではありません。
「コーカサスの教え」の著者ベネットは
「孤立とか淋しさは人を殺す」という風に
食事と、運動に気をつけていても
老人を大切にしていない
老人を尊敬していない若者志向の社会は
長寿かどうかに関与しているというのです。
コーカサスの社会では
日本のように定年を迎えると
社会との関係が途切れると言うことは
ありません。
家庭においても
年寄りは死ぬまで家長であり
自分の責任を果たす立場にあるのです。
死ぬまで
人は人の社会の役に立っていると
感じて生きることが
長く生きることに繋がるのでしょう
共に生きる医者
毎日クリニックには
様々な患者さんが来られます。
熱がある、咳が止まらない
眠れない、痛みが続く
だるい日が続く・・・・
悩みは様々
そんな方々に
病名をつけようとするのが
仕事だと思ってる
医者は多くいる
でも
僕の目の前の患者さんは
苦しんでるのは
理屈で考えられるような
言葉としての病名を
聞きたいのではないと思う。
患者さんが知りたいのは
決して
病名ではないはず。
苦しみは
しあわせと同じように
つかみどころのないもの。
花から搾り取られた香水のような
決して
野に咲く花と同じではないけど
目に見えるものではないけど
もっと、もっと純粋で、深いものだと思う。
考える病名をつけて
苦しみがなくなるわけじゃない。
目の前の患者さんは
苦しみの病名を聞きたいのではない。
言葉だけの 苦しみではなく
人として
苦しみを受け入れてもらいたいのではないか?
医学という目で見る医者ではなく
人間として共に生きる医者として
そして
同じ時を生きる人として
考えることが大切なのだと思う。
こどもたちの未来のための選択
なぜ、自分は小児科医になったのか?
科を選ぶ選択はたくさんありました。
でも、今思うことは
この科を選んで
こどもたち中心に考えて
生きてこれたことに感謝し
とてもよかったと感じます。
学生時代
九大小児科に見学にいった時
当時の医局長の南先生が
「こどもにはお金の価値では表せない
大切な財産だ
そこに携われるのは大きなことだ」と
仰ったのを今でもはっきり憶えています。
こどもの未来は
社会の未来なんです。
人は老いていき
いつかこどもたちが街の
未来を作ります。
こどもたちの明るい未来に手を貸すことは
社会全体、世界全体への
明るい未来に直結すること今実感しています。
こどもが明るく笑顔でのびのび成長できる
社会を作っていくのが
今のおとなの責任。
周りのこどもたちの笑顔があふれる社会に
もっともっとなるように
僕も小児科医として
もっともっと頑張っていきます。
永遠のいのちを得るためにすること
人はいつ死ぬかは
誰にもわかりません。
だから、その不安を払拭しよう
長生きしようと誰もが考えてきました。
永遠のいのちをえることができれば?
これは人間の永遠の願いかもしれません。
この永遠のいのちを得るための
考え方が日本人と西洋人とでは
大きなちがいがあるようです。
西洋人はどちらかと言えば
肉体を長くもつことで永遠を
手に入れようと画策している。
それに対して日本人は
肉体には限りがある。
だけどこの肉体が滅んでも
自分の思いを引き継いでくれる人がいたら
自分のいのちは永遠に生き続ける
と考える人が多いような気がします。
これは
周りの人を生かすことで
自分もいきていくという
利他の心が根付いてる気がします。
あなたは
肉体を滅びない方法で
永遠を生きていきますか?
それとも
こころを繋いで生き続ける
生き方。
どちらを選びますか?
坂本龍一氏のLAST DAY
世界的作曲家で、昨年亡くなった
坂本龍一氏の
最後の三年間を追ったドキュメンタリーを
観た。
作り物ではなく
文字通り
坂本龍一氏の最後の日までの
肉声、日記など
その時、その時の
苦しい胸の内
ふと晴れ間が指したような
気力があふれる日があったり
揺れる心内が伝わってきた。
病気は私たちの心を
自分と向き合わせてくれていた。
病気を通して自分を更に深く見つめることができる。
坂本龍一氏は
音楽と言うより、音とくに雨の音に
心和まされ、愛していた。
音と共に生きた人生。
それがご自身が求めた人生だったのだろうと感じた。
氏の人生が
幸せだったかは本人しかわからないけど
きっと音楽と共に死ぬ間際までいきられた
満足の人生だったのではないかと思った。
雨ニモマケズに学ぶ
宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ}は
今でも人々に多くのことを
伝えてくれる詩です。
この詩の中に
「ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ」
というところがあります。
この中のヒデリを
高熱で苦しんでいる人
サムサのところを
難しい病気や老衰などで末期の状態の人だと
読み替えてみると。
病気の本人が
つらさのあまりに涙を流し、
オロオロしてしまうのは当たり前のこと。
当人だけの問題ではなく
周りの家族だけでなく医療スタッフも
医者でさえも対応に苦慮することもあります。
そんな時の光景を
オロオロアルキって表現されるのでしょう。
でも
自分の医者人生を振り返ると
オロオロの連続です。
このオロオロアルキだから
患者さんの気持ちに寄り添い
共に困難から立ち上がる力が
あふれて進むことができたと気がします。
受けた恩は絶対に忘れない
人間は一人で生きていくことは
できません。
日々多くの人に支えられ、助けられ
人生を過ごしていきます。
今していること、
今の仕事に関すること
自分の利益につながりそうな人に対しては
誰もが礼を尽くすことを
忘れないでしょう。
でも
自分の目の前を通り過ぎた人
過去にお世話になった人
に対しては
恩を忘れないですか?
人から恩を受けた時の気持ちは
時間が経っても
決して忘れてはいけないものです。
人から受けた恩を忘れず
受けた恩に対して報いる努力をする
自分もまた、他の人に対して
受けた恩を送るような
人生が過ごせたら
しあわせな人生だと思いませんか?
誰にでも
お世話になった人は必ずいます。
両親、師、友人、知人・・・・
誰もがあなたのために
手を差し伸べてくれたのではないでしょうか?
その一人一人に
感謝の気持ちを伝えることができれば
気持ちも人生も豊かに
なるような気がします。
毎日一人づつ感謝したら
一年で365人
3年で1000人近い方に感謝することができます。
現代は、
手紙、電話、メール、ライン
様々な伝達方法があります。
自分に合った方法で伝える
また
決して、形にしなくても
その人に感謝して、しあわせを祈るだけでも
恩を尽くすことのような気がします。
受けた恩を絶対忘れることなく
あなたらしく
感謝をもって日々生きることが
できたら、きっと
あなたの心を豊かにし、
しあわせな人生へと
つながっていくのだと思います。