真実の医療」カテゴリーアーカイブ

プラトンが語る病気

プラトンと言えば
誰もが知っている古代ギリシャ時代の
大哲学者で
様々な現代人にも通じる英知を
授けてくれて
人間が今こうして発展してきたのも
彼の考えや教えによるところも大きいと
思います。

そんなプラトンは
病気のことについても
お考えを残しておられます。
そのひとつを今日はご紹介しようと思います。

著書「法律」の中で
病気について語っています。
病気にも患者、医者には2つに階級に分けられると。

つまり
病気に心奪われて
病気の奴隷として生きる人と
病気になっても心は自由である人の
2種類の患者さんがいると。

医者も
病気の奴隷になってる医者は
走り回っている病気の奴隷の傷を治すために
診療所で待って
患者さんの個人的なことについて気にしたり
不満に対してもきく耳を持とうとしない。
そして
自分の持ってる知識が
絶対であるかのように
自分の経験のみで、薬を処方し
暴君のように命令を下すと
また鼻高々に次の患者さんのところに行く。

病気に自由な患者さんのかかる医者は
自分自身も自由人の医者である。
自由人な患者さんと
色々お話をし、その話の中から
患者さんの不調の原因を見つけ出す。
患者さんだけでなく
必要なら家族、友人とも真剣に話して
情報を集め
考えられるすべてのことを
患者さんに伝えてくれるだろう。

医学知識のみで語る医者は
こんな生まれつきの体質や、性格など
ちょっと哲学的な話を患者さんとしているのを
見ると
心の底から笑うかもしれない。

そんなこと
どの論文、教科書にかいてあるんだ?
エビデンスはどこにある・・・なんて
言い出すかもしれない。

でも、目の前の患者さんは
なぜ病気になったかより
今ある苦痛、不安をとってもらいたいと
思って受診されます。

病気だけを診てる医者は
病気だけを治せば満足し
患者さんもそれで満足だと思うんです。

だけど、そのうち気がつくんですね。
また、同じ病気になったとき
同じ症状をくり返すうちに
どうして、病気ばかりするんだろう?
本当の訳を知りたい
病気から心から解放されたいと
思い出すんです。

例え、病気であっても
安心と安らぎを感じる生き方
心から自由でいきたいと
思うことでしょう。

僕も病気だけを治す医者でなく
患者さんが病気であっても
病気でなくても
本当の病気の真意を探り
心安らかに生きられることを目指す
僕自身も病気の奴隷でなく
心自由な医師であり続け体と思います。

人間は
どんな時でも自由なんです。
自由に生きなくてはいけないんです。

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魂の存在理由、目的とは

魂とはなんでしょう
魂は何のためにあるのでしょう。

この命題って
生きている間に
これだという答えを見つけることは
できないかもしれない。
なぜなら
この世での生が終わったときに
魂の謎が明かされる気がするのです。

でも
今、魂と共に生きていると
考えていると
魂について
気づくことがありました。

それは
魂は自分自身である存在のことで
魂は自分自身であるともに
宇宙全体の一部分でる気がするのです。

僕は音楽が好きですが
好きな音楽に例えると
魂は、ひとりひとりに
生まれたときに与えられた楽器の
気がするのです。

つまり
生まれる前に
みんな自分に合ったまたは演奏したい
楽器を持たされて生まれてきます。

ある人はピアノ
ある人はヴァイオリン、チェロだったり
また
美しい声だったり・・・・
思い思いの好きな楽器を携えて生まれてくるのです。

生まれてから
楽器を使う、ならすことが楽しくて
必死でならそうとします。
最初に出す音は
耳の痛い雑音のような音でも
周りと協調できない不協和音であり
とても音楽とは言いがたいかもしれないけど
毎日毎日使っている内に
だんだん美しい音が鳴らせるようになってきます。

すると
もっと美しい音楽を作りたい
色んな人と一緒に音楽を楽しみたい
と思うようになり
異なる楽器をもつ身近な人と合奏
するようになり
美しい音楽めざし、人々と切磋琢磨するようになります。
ひとりひとりずつ
一緒に合奏できるようになると
オーケストラのように大編成になります。
大編成になると
様々な個性のもつ楽器も増え
それぞれの思いだけで演奏しては
美しい音楽にはなりません。
すると
楽器をもっている人をまとめる人が
必要だということに気がつきます。

つまり
指揮者にあわせて
みんなで音楽を奏でることを学びます。
その指揮者の方が
宇宙にいらっしゃる神という存在なのかも
しれません。

神とともに
心、気持ちを一つにして
地球にいるみんなとも思いをすることで
美しいシンフォニーができあがることを知ります。
その時
自分の今いる存在の意味を知るのだと思います。

魂の目的は
宇宙にいる神の思いを
みんなと共有して成長することだと思うのです。

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メタトロンとは

サンタキッズ&ファミリークリニックでは
西洋医学を中心に現代医療を中心に
診療をしていますが
それとは別に
ナチュラルメディカルセンターで
これまでの医療とは全く
意を異なる医療を行っています。

ナチュラルメディカルセンターでも診療を開始し
2年半が過ぎましたが
同様の医療を行ってる医師は
それほどいなく
ある意味手探りではじめた医療。
きっと
緒方洪庵先生などの
歴史に名を残す先生方がそうであったように
医療そのものより
患者さんから教えてもらうことも多かったと思います。

メタトロンを使った
いわゆる波動医療も、僕自身も
日々わかったこと、進歩、進化
して行ってます。
ここでの医療について
今日は少しお話したいと思います。

メタトロンを行うと
からだの様々な部位
臓器から、細胞、染色体、遺伝子までの
エネルギーの低下
すなわち自然治癒力がどれくらいあるかが
わかります。

自然治癒力とは
からだが元々もっている
病気にならない、病気に負けない力とも
いえますが
この力が低下していると
病気になってしまいます。

でも
急に病気になるわけではなく
健康な状態から
徐々に治癒力が落ちて
自力での回復が認められなくなると
自ら症状をだし
薬、手術などの治療が必要な状態となり
その時点になると
人々は病院を受診をし、治療が始まると
考えます。

でも、実際は
医学の力を借りずに
自力で治そうとからだは
免疫力、神経など持てる力を総動員して
元気で暮らせるように
まさにからだをはって
僕たちを守ってくれているのです。

僕たちは
自分のからだであっても
実際、からだがどのような状態で
どのようにからだを守ってるか
知らないで過ごしてます。

知らなくてもいいのかもしれないですが
からだが頑張っていることを
気付いてあげると
からだも喜んであなたを支えてくれます。

そのことを
気づいてもらえる
わかってもらえると
誰でもうれしいですよね
それが人情というものですよね。

からだが頑張っていることに気づき
頑張っていることに
感謝の気持ちを伝えることが
メタトロンの役割です。

最近はやりのことばでいうと
自然治癒力を上げる
自己免疫力を上げる
自分のからだの内なる声を聞く
と言うことになるのでしょうね。

ナチュラルメディカルセンターでは
あなたの内なる声を聞く
新しい医療をこれからも更に進めていきます。

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健康に生きるとは

健康と一口に言っても
人それぞれの考えかたもあるし
人それぞれ
様々な考え方があるでしょう。

世界の健康問題について考えている組織
WHOによると
健康とは・・・
「身体的、精神的、社会的に良好な状態であり
単に病気がないとか、虚弱ではない
ということではない」と
しています。

つまり
からだに問題がない
健診などの検査で異常がない
ことだけが健康ではないということ。
つまり、肉体だけでなく
精神的、社会的の3つの点で
充分バランスがとれているということになります。

これが
全世界でめざしてる健康の定義ですが。
1998年、WHOが健康定義を作る時
「肉体、精神的、社会的」という言葉に加えて
「スピリチュアル」という言葉を入れようとしました。
しかし、スピリチュアルの
メンタルという意味合いもあり
神、霊という意味も含まれ
世界中の国々、社会で様々な考えがあり
統一した見解がないので
生きがいという意味にもとられますが
現在までは
この言葉は保留状態のままになっています。

僕は
この言葉は是非とも入れて欲しいとも思います。
と言うのも
人のからだは
肉体だけでできているわけではなく
肉体、心、魂の3つをもったからだが
社会全体とも調和をとれた状態が
健康な状態と
僕は考えます。

魂をスピリチュアルと
考えていいと思います。

この考えは
僕が考えたわけではなく
日本人は昔から魂の存在を
知っていたのです。
そのことは
日頃使っている日本語を読み解けば
わかるのです。

日本語というのは
他の外国語とは違って
言葉は音を表すだけでなく
一つ一つの音に
意味があるのです。

たとえば、「ひと」について
「ひ」は
いのちや本源という意味という意味
このいのちの源、すなわち尊きいのち(魂)が
とどまっている。
そして
「ひ」の本の国に生まれた
日本人は
いのちの源「ひ」をとどめ、輝かせながら
「霊統(ひと)として霊性進化し、
この世のモデルとして生きる役割」を
になっている存在が我々「ひと」なんです。

つまり
人とは
「霊(ひ)がとどまる」存在です。
霊とは魂と考えていいでしょう
魂が肉体、精神とバランスを保ちながら
他のひと(魂)と学び合う存在であることに
人間の生きる意味があるのだと思います。

これから
肉体、精神的、社会的そして霊的にも
健康であることを目指すのが
これからの真の医療だと
僕は考えます。

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ゲーム感覚で楽しんだリハビリ

入院してから
大きく2つのリハビリを行った。
1つは歩くためのリハビリ
2つ目は手の機能を回復するためのリハビリ
を行った。

歩くためのリハビリは
残った機能を使って
歩くための筋肉を動かして
歩行機能を獲得するリハビリ。
使わない筋肉は
機能がすぐ落ちてしまうから
少し筋トレに似たところがあって
おもりをつけて歩いたり
文字通り筋トレしたり
筋力をアップすることやって
ある意味体育会系のリハビリとも
いえる。

されに対して
指の機能を回復させる
作業療法は
力ももちろん必要だけど
小さい筋肉を共同して
複雑な手の機能を獲得するための
訓練、リハビリをしていくのが
作業療法。

小さいこどもが
遊ぶ中で運動機能がアップするように
リハビリも一歩ずつなんです。

例えば
よくお手玉を使って
リハビリを行いました。

お手玉を投げてもらって
それを受け取って
受け取ったお手玉を
箱の中に投げて入れるという
リハビリをしました。

3歳児でもできるような
単純なことですが
これが実はとても難しいというか
ボールをとって、すぐ投げる
それも目標に対して行う行動。
ボールを受け取って
即投げるという単純な作業ですが
全て、使う筋肉が違うのです。
ということは筋肉を指令する神経も異なる
と言うこと。

ですから
瞬時に神経を切り替えて
筋肉を動かす。
行為としては単純なことに思われるけど
様々な機能が協力し合って
やっとできることなんです。

ですから
ボールをとることだけに
神経がいってると
次にボールを投げようとしても
手が固まった状態でボールを握ったままで
止まってしまうんです。
でも、意識して次は投げることを意識していると
ボールを投げるようにはできるのですが
それを正確に目的の場所に投げるって
至難の業なんです。

これを今まで何も考えずにできたこと
こどもの発達の能力に感服でした。

僕にとってのリハビリは
機能回復するのが目的以外に
もっと、もっと大事なことを学ぶ機会なんではないかと
リハビリをしながら感じていたのでした。

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健康は目的でない

しあわせに人生を送るために
必要なこと、ものを考えた時に
「健康」と考える人は多いことでしょう。

実際患者さんでも
健康であるために
病気にならないために
このサプリはどうでしょうか?
この方法はどうなんでしょうか?
と流行の健康法の善し悪しについて
聞かれることがあります。

お話を聞いていると
とても健康に気遣っているようだけど
「健康」でいることが目的
「健康」でいようとすることが目的に
なっている気がします。

からだにいいからと言って
好きなものを我慢して
からだにいいと思うものを
頑張って食べたり
食に関して、健康に支配され
不自由生活を余儀なくされて
しあわせを感じられるでしょうか?

僕は
病気をして、後遺症もあり
病気前と比べて、決して健康とは言えないけど
この体を悪くしないように
食事は多少気をつけるけれど
健康オタクにならないようにも
気をつけています。

食事に気をつけるのは
健康にあることが一番の目的ではなく
しあわせに生きるためだと思うと
とても自由に、毎日生きられます

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痛みの苦しみがわかる方法

医者であっても、看護師であっても
医療者であるなら
患者さんの孤独と苦しみを理解することが
大事だと思うのです。

僕も、こどもだけでなく
おとなの人に注射をする時にも
「痛いでしょうけど
ちょっと我慢しましょう。(して下さい)」
と声をかけるようにしています。

その様に声をかけるだけで
患者さんの気持ちも和らいでくれると
思っています。

研修医時代
先輩医師が痛い処置をする時に
何もできない新米医師の自分は
患者さんの傍に立って
手を握って、声をかけてあげるしか
できなかった。
だけど、その時
痛みに耐えるように
僕の手をぎゅっと強く握ってくると
僕も力を強くして握りかえしました。
その時の
こどもたちの強い表情は
今でもしっかり、覚えています。

病気の時は
とてもつらいものだし
とても孤独を感じるものです。

その時に
そばにいて
その痛みを孤独を受け止める
ことが医療者もできれば
患者さんも頑張ってくれるはずです。

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みんなの中にいる神様

入院していたとき
感じた、わかったことのひとつに
自分のからだの中には
自分をいつも守ってくれている力があること。

それまで
どんな生活をしていても
例え、道徳にひどいことを
していたとしても
いつもどんな時も
自分を守り抜いてくれる力が
あることをかんじました。

それは
入院中は、
からだに備わっている自然治癒力だと
思って今も自分の中にある
自然治癒力はあると確信するに至っていますが
退院後一年経ち
その思いは変わっていませんが
自然治癒力だけでなく
きっと自分の人生全てを見守ってくれている力が
あることを今は疑っていません。

その力は
神様の力だと言っても言い過ぎではないと
思います。

自分のからだの中には
いつもどんな時でも、どこにいても
自分を見守ってくれている力があると
確信しています。
その力って・・・・
表す言葉はすぐには浮かばないけど
ひょっとして
この力が神様のご加護というのかとも
思うのです。

神様が
いつも守ってくれているのだから
自分を信じて、生きていくことは
神様にお任せして毎日過ごせいいんだ。
神様のご加護の元
生きていけばいいと思えば
どんなに毎日生きていくのが楽になることでしょう。

それから僕は
神様の力、ご加護を感じたときには
手を合わせて感謝するようにしました。
その時、お祈りについて気づいたことがリます。
それまで
神社にお参りにいくのは
初詣、誕生日、厄年、受験など
神様の御利益を期待して、願い
お参りに言ってたんですよね。

でも
御利益をお祈りするのではなく
今こうして生きられることに感謝の気持ちを
神様に伝えないといけない
これが神様の喜ばれるお参りだと
気づいたんですね。

自分の中にいらっしゃる神様に
感謝することは忘れてはいけないことに
気づいたと同時に
神様は
自分以外の人の中にもいらっしゃってるんですよね。
もちろん、木にも石にも、動物にも花にも、物にも
全ての中に神様がいらっしゃるんですよね。

日本では
八百万の神と呼んで
全ての物に感謝の気持ちを伝えいるんですよね。

全ての物、人の中にいらっしゃる
全ての神様に感謝して
神様にお任せして
毎日一生懸命大切に生きていけば
必ず神様からのご加護があるんでしょうね。

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老いるといいことはない?

診療に訪れるお年寄りは
最初は全員というくらい
ため息交じりに、暗い表情されて
診察室に入ってこられます。

病気だから
病気の時に明るく過ごせと言っても
なかなかそんな気分になれないのは
わかります。

普通に生活していても
腰が痛かったり
目が悪くなっていたり
物忘れが多くなったと
多くのお年寄りが
嘆かれる理由はわかります。
そして
「老いていいことなんかない」と
老いたことを悲しそうな表情で
僕に訴えてくるのです。
そんな悲しい顔をされると
僕まで悲しい気分になってしまうのですが・・・

本当に年をとることは
そんなに悲しいことなのでしょうか?

確かに
若い頃に比べると
あれもできない、これもできないと
できないことを数えてしまうと
気分的に落ち込んでしまいます。

でも、物は考えようです。
例えできることの数が減ろうと
できる範囲で楽しめることは
いくらでもあるはずです。

できないことに目を向けるのではなく
できることに目を向けて毎日過ごせば
老いて体が衰えようとも
生きる喜びを持ち続けることができるはずです。

まだまだ、自分の中にある
元気なエネルギーがあることを診療しながら
お伝えすると
まだまだやれるという気持ちに切り替えられたのか
診療が終わる頃には
明るい笑顔を浮かべられる方もいます。

最初は
そのことに気がつかなくても
来院されるたびに
だんだん表情が明るくなり
以前感じた老いることを悔いてた
重い空気が
前向きな空気に変わって
診療室全体が明るい雰囲気に包まれるから
不思議です。

ナチュラルメディカルセンターでは
年老いても、明るく元気に過ごせる
診療を目指しています。

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余命1年の宣告をうけたら

最近年をとると
死について考えることが増えてきます。
そして
死の瞬間のシュミレーションを
することが増えてきました。

誰もが
穏やかな死の瞬間を迎えたいことでしょう。
後悔なくその瞬間を迎えるために
もし余命1年の宣告をうけたら
あなたは何をしますか?

残された時間が限られていたら
もう一度会いたい人に会いに行く
最後にあそこに行ってみる
やりたかったことをしてみる・・・・
など
やっておきたいことは頭に浮かぶことでしょう。

もし僕なら
もう一度行きたいところ
行ってみたいところもあります。
もう一度会いたい人もいます。
コンサート行ったり
名所巡りしたり
ゆっくりできることで
何も考えずに、おいしいものをゆっくり食べて
本をゆっくり読みたいなど
やりたいことが頭をよぎります。

でも、きっとその時になると
体が動く限り
働こうと思うだろうし
時間があっても、
死の間際には体力的も限界で
とても出かけることは
無理な状態になっているかもしれません。

死の間際になって
家族ともっと過ごせればよかった
旧友に会っとけば良かったと思う人が
多いと聞きます。
そう思うのは
それまでの人生で
家族と一緒に過ごすよりも仕事や趣味を
優先したのは
その時はそれが大事だと思ったからでしょう。
旧友に会うよりも
もっと集中するべきことが
あったからでしょう。
そのことを大事だと思って優先してたのに
死の間際になって
こうすればよかったと後悔するのは
考え方によっては
一寸欲張りな気もしませんか?

人間は最後になると
もっとできたのではないかと
後悔したり、様々な思いに駆られるのは
人間の業なのかもしれません。

ですから死の間際に少しでも
悔いることのないよう
今やっていることに
全力で悔いなく全力で取り組むことが
大事なのだと思います。

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