コーカサス地方の人々が長寿なのは?

長寿の人たちの暮らし方を研究することで
長寿の秘密を探ろうとする。

代表的な長寿国(地方)は
日本、地中海、そしてコーカサス地方は
よく研究され
和食が注目されたり
オリーブオイルがいいなどと言われてきた。

それも一理あるだろうけど
食事だけが全てではありません。

「コーカサスの教え」の著者ベネットは
「孤立とか淋しさは人を殺す」という風に
食事と、運動に気をつけていても
老人を大切にしていない
老人を尊敬していない若者志向の社会は
長寿かどうかに関与しているというのです。

コーカサスの社会では
日本のように定年を迎えると
社会との関係が途切れると言うことは
ありません。

家庭においても
年寄りは死ぬまで家長であり
自分の責任を果たす立場にあるのです。

死ぬまで
人は人の社会の役に立っていると
感じて生きることが
長く生きることに繋がるのでしょう

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犬は大好きだけど

神社の神官さんに
あなたは犬がこわいですね。
と言われた。

幼い頃から
犬を飼いたいと両親に言ってたけど
その願いは叶わなかった。
でも、犬をずっと飼いたかった
今でも気持ちは変わらない
犬好きだけど
その神主さんの言葉を
否定しかけた時
ふと、幼少時の思い出が蘇った。

まだ幼稚園の時
近所にスピッツのこどもが生まれて
その1匹を
自分の犬と決めて
一時期毎日のようにその子犬の
お世話をしていたことを思いだした。

子犬は大好きだけど・・・・
また、小学校になって
家を引っ越したので
その子犬は会えなくなってしまった。

引っ越し先の
となりの家には
雑種のジョンという成犬がいました。
その犬は番犬としては優秀で
人が来たらよく吠えるのです。
そして僕が傍を通っただけで
凄い形相で威嚇するので
怖くてたまらなかったです。

ある時
ジョンは、いつも繋がれているのに
鎖を外して
となりの空き地にいたのをみつけて
一歩も家から出られなくなったのを
思い出します。
今でもその時の恐怖感は
記憶にのこっています。

次にこのことは
親から聞いた話だけど
2.3歳の時
叔母の家で飼っていた犬を預かっていて
その犬が家の裏に繋がれていて
僕をみつけると
吠えて僕が怖がるのを楽しんでるように
威嚇するのです。

だから
裏の入り口から
決して外に出なかったんだけど
ある日
親が大丈夫だからというので
その犬の横を通ろうとすると
そんな僕をみつけて
ちょっとからかってやろうと思ったのか
吠えたのです。
案の定僕は驚いて
こけてしまいました。
すると、その犬が
勝ち誇ったように倒れた僕の上に
立ったのです。

僕は、助けを呼ぶために大泣き
その声を聞きつけた母は
驚いて僕を助け出したのでした。

その体験は怖かった。

その幼少時の体験が
今も心に残っていて
それを感じて神主さんは
僕が犬が怖いと言ったのでしょうか?

そこはわかりませんが
僕は大好きな犬で恐怖体験をしたことを
その言葉で思い出しました。

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花の世の 花のようなる 人ばかり

これは龍澤寺の住職をつとめられ
俳人飯田蛇笏の弟子でもあった
中川宋淵師の俳句です。

どんな時代であっても
どのような生き方をしても
世の中は花であり
人もまたみな花であるという
意味です。

どの時代に生まれたとしても
その時がどんな時代であっても
価値がないという時代は存在しない。

また
あなたがどんな時代に生まれていようが
あなたの生まれていること時代
価値があり
あなた自身が花なのです。

とってもいい俳句だと思いませんか?

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初発心時 便成正覚

この言葉は
禅の言葉ですが
この言葉は「初心忘るべからず」と
似て非なる同義の意味があります。
この意味は
修行をしようという心を持った時に
すでに正しい悟りがなっている
ということです。

何かを始めようとした決意した
その瞬間にすでに
悟りの境地に達している
ということです。

ですから
何か始めようと決意して
実行し始めることに
大きな意味があるということでしょう。
ですから
この一歩踏み出すことが
大事なのです。

しかし
動き出すと
どうして結果が出ないのか?
やり方がわからなくて
投げ出してしまいたい時もあるでしょう。

そんな時には
是非決意した時の
やる気にあふれた時を思い出しましょう。

初心を忘れてしまうと
その後の人生は尻つぼみになってしまいます。
そして
人生は長く思えても
瞬間、瞬間の今の積み重ねです。

毎日
初心の心を忘れずに
生きて生きたいものです。

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不幸を受け入れる

これは
アメリカの精神医学者シーベリーの言葉。
人間でいる以上
避けられないことは、受け入れようと
いう言葉です。

人は、年取って衰えを感じると
何だか不幸に向かって進んでいるように
感じてしまうかもしれません。

老いを落ちぶれてしまった
と感じる人もいるでしょう。
老いを落ちぶれたと考えてしまうと
最期の時に
「我が人生に悔いなし」と言えなくなる気がします。

老いは
若い時と比べて引け目を感じることはない。

体力が落ちたとしても
それまでの経験があるから
がむしゃらに走り抜けなくてもいい
若い時に比べて
先が見えるようになっているし
若い時には見えなかったものが見えてくるから
意外と老いるのも楽しいものです。

そう感じるために
自分が自分らしく生きていくことが大事。
人の生き方を比べて生きていくと
自分を見失って
落ちぶてたといつも感じてしまうようになるのです。

そして
老いると、若い人に譲ることが増えてくるでしょう。
今までやってきたことをしなくなることは
悲しいことのような気もしますが
これまで消費していた時間を
手放したその時間を
これまでやりたかったこと、やり直したことに使うなど
人生を再構築できる時間なんです。

だから
老いることは嘆くことばかりでなく
楽しみ多くなる時期なんだと思います。

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心臓

毎日
いろんな人の心臓の音を
聴きます。
あたりまえのように
鼓動している心臓。
いつかは心臓は止まってしまう。
心臓が止まること
=”死”ではない気がして
心臓が止まる時って
どういうことなのか?を
詩にしてみました。
“心臓”
心臓って、大切な臓器
心臓が止まれば、
人は死にます
でも
死んだから
心臓が止まったのではない
気がします。
生きている限り
生きる喜びをを存分に味わい
力いっぱい生き抜き
与えられた命が尽きた
その瞬間に
心臓は鼓動を
止めてしまう
ような気がします。
だから
人は
心臓の鼓動が終わるその時まで
生きる喜びを
全身で感じつつ
毎日生きないといけない
だと思います

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ラビンドラナート・ドゴール「果物採集」より

最近
海に行き、山に行き
太陽の光を浴びながら
海のものをとって食べ
畑に行って採れたての野菜を食べ
自然の中に身をおき
自然からのエネルギーを
いただくことがありました。
そんな時に
自然の中で生かされているんだと
感じた時に出会った詩。

ドゴールの詩「果物採集」

「危険から守り給えと祈るのではなく
危険と勇敢に立ち向かえますように

痛みが鎮まることを乞うのではなく
痛みに打ち克つ心を乞えますように

人生という戦場で味方を探すのではなく
自分自身の力を見いだせますように

不安と恐れの下で救済を切望するのではなく
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように

成功のなかにのみ
あなたの恵みを感じるような卑怯者ではなく、
失意のときにこそ
あなたの御手に握られていることに
気づけますように。」

この詩の中に
だれにもどんな時でも
生きていく力が自分自身の中にあること
そして
しあわせに生きていくヒントがあるような
気がしたのでご紹介します。

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共に生きる医者

毎日クリニックには
様々な患者さんが来られます。
熱がある、咳が止まらない
眠れない、痛みが続く
だるい日が続く・・・・
悩みは様々
そんな方々に
病名をつけようとするのが
仕事だと思ってる
医者は多くいる
でも
僕の目の前の患者さんは
苦しんでるのは
理屈で考えられるような
言葉としての病名を
聞きたいのではないと思う。
患者さんが知りたいのは
決して
病名ではないはず。
苦しみは
しあわせと同じように
つかみどころのないもの。
花から搾り取られた香水のような
決して
野に咲く花と同じではないけど
目に見えるものではないけど
もっと、もっと純粋で、深いものだと思う。
考える病名をつけて
苦しみがなくなるわけじゃない。
目の前の患者さんは
苦しみの病名を聞きたいのではない。
言葉だけの 苦しみではなく
人として
苦しみを受け入れてもらいたいのではないか?
医学という目で見る医者ではなく
人間として共に生きる医者として
そして
同じ時を生きる人として
考えることが大切なのだと思う。

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お帰り

すべてを
失ったとき
笑顔で迎えてくれる人
昔と同じ気持ちで
さりげない
やさしさで
接してくれる人
もう一度
ここから一緒に
歩きだそうと
言ってくれる人

いろんな人に
支えられて
今日まで生きてこれた

そして
これからも多くの人に
気づかないうちに
支えられて生きていくにちがいない

だから
今日出会うみんなに
”ありがとう”と伝えたい

☆ひとりで生きていると思っても
誰かのおかげで
生きている自分がいる。
生きていることすらも
自分でなく
誰かに生かされているような
気がする時もあります。
だから
いつも”ありがとう”の気持ちを
忘れてはいけないと思って
作った詩です。

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こどもたちの未来のための選択

なぜ、自分は小児科医になったのか?
科を選ぶ選択はたくさんありました。
でも、今思うことは
この科を選んで
こどもたち中心に考えて
生きてこれたことに感謝し
とてもよかったと感じます。

学生時代
九大小児科に見学にいった時
当時の医局長の南先生が
「こどもにはお金の価値では表せない
大切な財産だ
そこに携われるのは大きなことだ」と
仰ったのを今でもはっきり憶えています。

こどもの未来は
社会の未来なんです。

人は老いていき
いつかこどもたちが街の
未来を作ります。

こどもたちの明るい未来に手を貸すことは
社会全体、世界全体への
明るい未来に直結すること今実感しています。

こどもが明るく笑顔でのびのび成長できる
社会を作っていくのが
今のおとなの責任。

周りのこどもたちの笑顔があふれる社会に
もっともっとなるように
僕も小児科医として
もっともっと頑張っていきます。

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